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「『μ‘sの18人』という『永遠の伝説』に出会えた喜び、そして『μ’s Final LoveLive!』(いわゆる『ファイナルライブ』)から1年近くたったいまだからこそ、一人のラブライバーとして率直に感じること(その3)。」

 何故、自分が、「μ‘sの18人のファン」「ラブライバー」になったのか、ということについて、「Rの法則」の再放送回で「μ’s」に強い好感を抱いて、よし、劇場版を鑑賞しよう、と決心したところまでを、先述にて言及させて頂きました。

 

 2015年7月17日。『ラブライブ!』劇場版を初鑑賞。

 もう、正直、涙腺崩壊だったんですよね。特にラスト。

 そう、「僕たちはひとつの光」。なんと素晴らしい楽曲なんだ!と。

 

 「これだ!これだよ!自分が求めていた音楽って!」

 

 それが、正直な感覚だったんですよね。もう、ただただ「感動」で。

 それと、穂乃果と女性シンガーの会話シーン。どういう意味だろう?1回じゃあまり意味がつかめなかったから、もう1回観る必要があるだろうなあ、と。

 

 そして、「画面オレンジ」(「飛べるよ、いつだって飛べる!」の場面)。

 映像技術として、最高に光り輝いているんですよね。

 それにライブシーンをも含めて、いわば、

 

 「映画館だからこそ生み出せる、独特の音響及び映像の技術を最大限に活かせている!」

 

 自分的には、そう強く感じたんですよね。

 

 

 で、2回目を鑑賞した後に、7月下旬、上京の機会があって。

 日程が合ったので、メインの予定までの時間を使って、新宿ピカデリーにて3回目を鑑賞。その後、神田明神へ。

 当時は、「聖地巡礼」という言葉の意味さえ、わかっていなかったのです。

 せっかく映画の舞台になっているのだから、訪れてみよう、という感じで。

 いざ訪れると、もう、衝撃でした。あちこちに、ラブライブ関係の絵馬が。

 近くには秋葉原が。1か月前に「自分には合わないなあ」と思っていた当時の自分とは、それこそ「真逆の感覚」が、そこには正直あったのです。

 

 

 いわばこの時点で、どっぷり「ラブライバー」になっていたのかもしれませんが、自分的に、特に大きかったのが、4回目の鑑賞での、

 

 「μ‘sとみんなのスペシャルステージ(いわゆる「応援上映」。しかし、ファンの間では一般的に「絶叫上映」と称されていた)」。

 

 これを、8月2日、大阪ステーションシティシネマにて鑑賞したのです。

 勿論、人生初めての「声出し可能上映」でした。

 

 最初はある種の「カルチャーショック」でした。もう、「カオス」というか。

 でも、雰囲気をつかみ始めると、これがもう、「最高に楽しい」感じで。

 特に自分的には、「歌える」こと。そして、自分自身の「(リアルに)最大の特徴」である、「大きくて高い声質」を「最大限に活かせる」こと。

 そして、映画の魅力を「共有できる」「分かち合える」こと。これが特に自分的には、とても嬉しかったんですよ。

 

 

 長くなりましたが、自分が「ラブライバー」「μ‘sのファン」になっていった経緯としては、およそ、このような感じなのです。

 そして、「μ‘s」に出会って、自分自身の「価値観」は、大きく変化した感じとしてあるのです。なんというか、「一気に視野が拡がった」感覚なんですよね。

 

 「μ‘s」に出会って、自分自身が変化したことは、後述にて追って言及しますが、当初の自分は、

 

 「(キャラは)『穂乃果推し』、(担当声優は)『ナンジョルノ推し』」

 

 でした。しかし、最終的には、

 

 「(キャラ、担当声優のいずれも)『箱推し』。μ‘sこそ、自分自身の『生きる希望』である。」

 

 という感じへとなっていったのです。

 ですので、「箱推し」へとなっていった経緯を綴らせて頂いた後で、「μ‘s」に出会ったことで生まれた自分自身の変化、及び「μ’s」を通して学んだことについての言及へと、話を進めていきたいと思います。

 

 

 何故、「箱推し」になっていったのか、ということで、まあ、話すと長くなるので、ある程度絞る感じになりますが、まず何よりも、「うっちー」の存在がとても大きかったのです。

 

 実は第一印象として、ことりちゃん。

 「何だ?この独特のキーンとする声質。放送事故じゃないよね?」

 いまにして思えばとても失礼なのですけど、自分も「ハイトーンボイス」の持ち主なのですが、その自分の声質もかすんで感じるほどの、今までには記憶にないような独特の声質。最初、自分はとても苦手だったんですよ(後に、いわゆる「脳トロボイス」として、徐々に受容できるようになっていった感じですけど)。

 

 その印象が変化していったのは、うっちーのTwitterを閲読させて頂くようになってからなのです。

 

 

 (図解1)うっちー(内田彩さん)のTwitterの発信力の素晴らしさ。

 (1)一つ一つの言葉が丁寧。ほんの小さな違いかもだけど、細かいところまでの「心遣い」が伝わってくること。

 (2)どのような作品、どのような役に対しても、「思い入れの強さ」が伝わってくる。特に、いつだったか、『たまゆら』(進藤巧美役)のイベント参加のことは、素直に強い感動を覚えた(正直、メインキャラクターではないにもかかわらず、わざわざ広島[竹原]まで出向くことに、人間としての「誠実さ」を感じて、見習いたいと思いました)。

 (3)先述の『たまゆら』のことも然りだが、「プロ意識」の強さ。そして、仲間を、スタッフを、つまり、自分を支えている全ての人間に対する人間への感謝の姿勢が伝わってくること。

 (4)「思いやり」。特に、2015年の紅白歌合戦のときの、ナンジョルノの出場断念決定時の、一連のツイートは、一生記憶に焼きつけ続けるであろうと強く感じます。読んでもう、涙が止まりませんでしたから。

 (5)「いつだって全力」で、「本音で語れる」ところ。それでいて、自分たちファンと同じ目線を大切にできるところ。特に、いつだったか、新宿ピカデリーにて、女子限定のスペシャルステージにプライベートで参加していたツイートを拝読したときは、もう、最高に感動でした。

 (6)「ファン想い」。先述の、共演者やスタッフへの感謝とかにも相通ずるけど、不思議と「惹き付ける」「心をつかんで離さない」感じが伝わってくるんですよね。

 

 

 このように、もう、うっちーの「発信力」「プロ意識」は、「不世出の天才」と自分は思っているのです。そして自分の中では、「Twitterの女神」とも思っています。

 特に、自分が「箱推し」になることを決定付けたのは、うっちーの、2015年12月、紅白歌合戦が「8人」で出場することになった際の、一連のツイートです。リンクを貼ります。

 

 

 (図解2)うっちーの「紅白歌合戦」における一連のツイート(2015年12月29日)。

(https://twitter.com/aya_uchida/status/681727345380556800?ref_src=twsrc%5Etfw)

(https://twitter.com/aya_uchida/status/681729877137948672?ref_src=twsrc%5Etfw)

(https://twitter.com/aya_uchida/status/681732647320555520?ref_src=twsrc%5Etfw)

 

 

 いわば、うっちーにとって、「μ‘s」としても、個人活動としても、ナンジョルノの存在は、

 

 「『永遠の仲間』であると共に、(恐らくそれ以上に)『永遠のライバル』。」

 

 ではないかと自分は想像しているのですけど、だからこそより一層、「内田彩」という人間(声優、歌手としては勿論だが、それ以上に「一人の人間として」、という意味で)の「人間としての器量の大きさ」を、自分は強く実感したのです。

 

 

 

 

 そう。確かに「外見」とかも大切と思いますし、プロとしての「技術」も大切とは思うのですけど、それ以上にむしろ、

 

 「一人の人間として、生きていくことにおいて、『内面』『気持ち』こそ、最も大切な要素としてあるのではないか?」

 

 ということを、うっちーから、いままで以上に強く学ばせて頂く感じとしてあるのです。

 

 

 それと、うっちーでいえば、あと2つ、どうしても言及したいことがあるのです。

 第一に、うっちーの伝わってくる人間性を通して、「ことりちゃん」への解釈が、前向きな方向へと大きく変化したことです。

 

 穂乃果ちゃん。勿論、えみつんが演じている訳ですし、穂乃果ちゃんを「生きている」ことがひしひしと伝わってくる感じとしてあるのですが、実績とか引き出しとかを考慮すれば、うっちー、みもりん(三森すずこさん[園田海未役]の愛称)、ナンジョルノでも不思議ではないのですけど、勿論、穂乃果ちゃんは「えみつん」だからこそ最高に光り輝く感じとは強く抱くのですけど、穂乃果ちゃんを最高に輝かせられている意味で、最も大きな影響のある存在は、自分は「ことりちゃん」、いや、「うっちー」と自分は解釈しているのです。

 

 自分がうっちーだったら、「何故自分が穂乃果ちゃんじゃないのよ?」と思ってしまうかもなあ、と思うのです。でも、穂乃果ちゃんも、自分(ことりちゃん)も、ともに輝かせられる、それは、

 

 「うっちーが『ことりちゃん』を全力で生きたからこそ!」

 

 勿論、えみつん自身の努力はいわずもがななのですけど、うっちーが果たした要素は、少なからず大きいのでは?と自分は思っているんですよね。

 

 

 第二に言及したいこととして、うっちーの「声優観」が挙げられます。

 

 うっちーは、自身が考える「声優観」として、下記のことを述べています。

 ([http://seigura.com/senior/message/20131129_4043/1.html]より、一部引用させて頂きます。)

 

 「何といっても、キャラクターを演じられる事です。

 

自分が、その役に命を吹き込むということは、本当に凄いことで、有り難く、幸せな事だと思います。

 

役を演じるときは、どんな子なんだろう? こんな時どう考えるかな? と色々考えるのがとても楽しいです。

 

自分とは全く逆だな~と思う性格の子を演じていても、意外と自分にもこういう所あるな…と、新たな発見があったりするのも楽しいです。」

 

 「役に命を吹き込む」。実は、今まではこの考えは、自分にはなかった考え方でした。というのも、自分は、「ある声優観」を、ずっと信奉し続けてきたからです。

 

 

 「『声優』という職業は存在せず、99%『役者』の仕事の1つに『声優業』という仕事内容がある。」

 「声優を目指すな、役者を目指せ。演技は全身でするものだ。それでこそ『声優業』も活きてくるんだ。」

 

 

 そう。自分がずっと信じ続けてきた「声優観」は、この、山田康雄さん(『ルパン三世』の主人公を長年担当した)の、

 

 「声優とは、『役者』の一部分としてある」

 「声優とは、『全身で表現』することがあってこそ、『声の表現』がより生きてくる」

 

 という、そのような考えであったのです。ちなみに、『ルパン三世』(山田康雄版)の担当声優は、ほとんどの主要キャストが、山田さんと似たような「声優観」の持ち主と伺うのですが、それも、自分が強い共感を抱いた、好んで観ていたことに少なからず影響していたのかもしれません。

 これは、『ルパン三世』の担当声優が、基本的にいわゆる「舞台役者」出身である影響が大きいのかな、と自分は解釈しています。いまも例えば、関智一さん(「ヘロヘロQカムパニー」の活動)、坂本真綾さんのように、舞台活動を重要視していらっしゃる声優さんは少なからずいらっしゃる感じですが。

 

 

 ですので、うっちーの「声優観」に触れたときは、自分的にはとても新鮮な感覚だったんですよ。それと共に、ある種の「戸惑い」も少なからず抱いた感じですけど。

 それと、うっちーは、自身の「声優観」として、こうも述べています。

 

 ([https://twitter.com/aya_uchida/status/669913156383170560]より、一部を引用。)

 

 「中学の頃から声優になりたくて…

裏方の仕事を目指した私がこんな華々しい表舞台に立つ日が来るなんて想像もしなかった」

 

 そう。「裏方としての仕事」。この「声優観」は、例えば、高山みなみさん(『魔女の宅急便』のキキ役など。『ラブライブ!』の劇場版でも、女性シンガー役として登場していました)、林原めぐみさん(『新世紀エヴァンゲリオン』綾波レイ役など。歌手としても長年にわたり活躍)なども、似たような考えの持ち主と伺います。

 

 

 山田康雄さんのような「声優観」、うっちーのような「声優観」、どちらがよりしっくりいくのだろう?と、ずっと問い続けていました。

 ですが、いわゆる「ファイナルライブ」を終えて、自分なりに「μ‘s」を振り返る時間を、2016年4月~5月は特に、その時期に充てた感じだったのですけど、そのとき、

 

 「山田康雄さん、うっちー、いずれの『声優観』も、同じくらいとても大切で、尊重されて然るべき考え方なのでは?」

 

 と思うようになったのです。そしてそう考えると、声優、アニメ、そして吹き替え(尤も洋画は専らテレビでしか見ないのですが…)のいずれも、その解釈がより幅を持たせられるような、前向きに捉えられるような感覚へとなっていっているんですよね。

 

 

 ちなみに、うっちーの「思いやり」「誠実さ」は、下記の文章にも表れている、と強く感じます。

 

 (http://ameblo.jp/ichigoshiroppu/entry-12148232178.html)

 

 文面を読むと、恐らく、「ファイナルライブ」終了を以ての事務所移籍と解釈できるのですけど、一つ一つの言葉がとても丁寧で、「うっちー、ありがとう」、そう強く抱く感じとしてあるのです。

 

 

 いずれにせよ、うっちーとの出会いは、自分自身にとって、「一人のラブライバーとして」のみならず、それ以上に「一人の人間として」、大きな影響をもたらした感じなのですけど、自分が、「μ‘s」について、「箱推し」になるもう一人の大きな存在がいたのです。

 

 「くっすん」(楠田亜衣奈さん)。

 

 彼女について、少し自分なりに言及させて頂ければ、と思います。

 

 

 当初、くっすん(というか、東條希)も、自分の中での好感度は、高くはありませんでした。

 東條希としての、「横幅の広さ」もですが、実はそれ以上に、

 

 「なんだ?この、ギャルみたいな感じは?職業、声優さんなんだよね?」

 

 と。外見的に、それこそ、「認められないわあ」だったんですよ。

 (いまにして思えば、とても恥ずべきことなのですけど。)

 

 ですが、2015年の9月下旬であったか、下記の動画に出会ったことが、大きな転機になったのです。

 

 (https://www.youtube.com/watch?v=dix-lB_muio)

 

 「Youtube」における、「4thライブ」(2014年2月、SSAにて開催)における、「Snow halation」の動画です。4分14秒、フルサイズになっています。

 

 「くっすんに、『神が舞い降りた!』、自分にはまるでそのように映る。神様って、きっといるんだろうなあ。誰よりも、誰よりも光り輝いて映る!楽曲の素晴らしさを、世界観を全身で表現できている!」

 

 この動画は、自分の「くっすん」に対する解釈を、ほぼ180度ひっくり返す感じになりました。そう、好感度が一気に「爆上げ」になったのです。

 それから数日して、行きつけの書店にて、確か、『Pick-up Voice』という声優雑誌であったかなと記憶するのですが、そこにくっすんのインタビュー記事があったのです。それを読んで、不思議と「心が温まる」ような感覚になって。

 

 なんというか、「μ‘s」の一員としての評価を勝ち取って、ソロ歌手としてのメジャーデビューをも叶えて、それはくっすん自身の人一倍の努力の賜物でもあるのだけど、たくさんの人間の支えがあったから、自分はここまで辿り着けたことが、言葉や表情の端々から伝わってきて、なんだかとても嬉しくて、気が付けば、ぽろりと涙がこぼれおちてきて。

 

 

 このとき、自分の中での『ラブライブ!』劇場版の鑑賞は、いったん一区切りを付けていたのですが(それまでに既に通算10回鑑賞していましたが。うち応援上映だけでも4回鑑賞)、これを機に、まったりとですが、劇場版の鑑賞を再開しました。

 当時、関西では、「なんばパークスシネマ」だけは、主としてレイトショーでですけど、1日1回、息長く上映を続けていましたので、10月以後、年末までの間に通算7回鑑賞しました(うち1回は「新宿ピカデリー」での鑑賞でしたが。そして、クリスマスの応援上映も参加しました)。

 

 10月に鑑賞を再開して以後、くっすんにも、そして希(東條希)にも、観る眼が大きく変化した感じで、いわば、「味がある」感じに映るようになったんですよね。

 

 なんというか、確かに、くっすんって、技術的には(声優としても歌手としても)、確かにある種「発展途上」なところはあるのかもしれませんが、でも、「いつだって全力で一生懸命」な感じが伝わってくるんですよね。そして、「ライブ映え」することをも含めて。少し「不器用」な感じをも抱きますが、それをもひっくるめて、くっすんの「魅力」と強く感じるのです。

 

 

 いずれにせよ、自分自身、「うっちー」「くっすん」、この2人との出会いによって、自分は気が付けば、「μ‘s」が「箱推し」になっていった感じとしてあるのです。

 そして、「うっちー」「くっすん」、いずれも「μ‘s」在籍時は、JTB系列の事務所に所属していたんですよね(現在はいずれも移籍していますが)。ですので、「なんばパークスシネマ」にて『ラブライブ!』を鑑賞する際は、

 

 「うっちー、くっすん、いってきます。」

 

 と、「JTB」のロゴ(南海難波駅2階にて、JTBの店舗がありますので)にそっと手を添えて、上記の言葉を心の中で語り掛けて、それで「スイッチを入れる」、それがいつしか、自分自身の「心のルーティン」になっていました。

 

 

 では、すみません、続きを(その4)にて綴らせて頂きたく思います。