先述において、
(その1)(「μ‘s FinalLoveLive!」を自分なりに振り返って。)
(その2)(何故自分が「ラブライバー」「μ‘sのファン」になったのか。)
(その3)(何故自分が「箱推し」になったのか。)
ということについて綴らせて頂きました。
このことを踏まえて、
「μ‘sに出会ったことによる自分自身の変化」
「『応援上映』の魅力と課題について思うこと」
この2つのことについて、自分なりに綴らせて頂きたいと思います。
(図解2)「μ‘sに出会ったことによる自分自身の変化。」
(1)映画館で映画を観る頻度が一気に増えた。
(→『ラブライブ!』以前は、年に片手で数える程度しか鑑賞しなかったし、同じ作品を2回以上鑑賞したことも、『くちびるに歌を』の1作品のみだった。しかし、『ラブライブ!』以後は、SMTポイントカードに入会した影響もあってか、2か月に1回[月に3~5回くらい観るときも]は、何らかの作品を鑑賞するようになった。)
(2)「アニメ」がより身近になった(心の敷居が低くなった)。
(→絵柄に対する選り好みはそのままだし、漫画自体は全く読まないことも変わらないけど、アニメを観る頻度は結構上がった感じだし、映画館で見る映画の頻度も、以前はいわゆる「青春映画」[実写の邦画]がほとんどだったが、アニメと実写が「50対50」に近い感じで鑑賞するようになった。また、『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズ、『リルリルフェアリル』のように、「μ‘s」声優が出演していることがきっかけになって、そこから作品の魅力にはまった作品もあったり、『RWBY』のように、新しい切り口と感じて好感を抱く作品にも出会えて、自分的にはプラスの感じです。)
(3)「声優雑誌」「アニメソング雑誌」が身近になった。
(→かつては、書店に行ったら、スポーツ関係の雑誌や書籍、教育や防災関係の書籍とかの優先順位が高かったが、声優雑誌がレパートリーに入り、視野が拡がった感覚。グラビア雑誌の要素をも兼ね備えており、声優、あるいはアニメソング歌手の素顔に触れられることも、自分的にはプラス。尤も、ほぼ専ら女性の声優やアニメソング歌手しか自分の関心対象はなくて、男性声優のことはさっぱり分からないですし、声優一本で活動する人間よりは、声優アーティストとして活動している人間の方に関心が強く抱いていたりしますが。)
(4)「推し」ということについて強く考えさせられる。また、「百合」ということについても。
(→これについては後述にて言及。ちなみに『ラブライブ!』の魅力として、いくつもの魅力的な「百合」、例えば、「のぞえり」「りんぱな」「にこまき」「ことうみ」等々の存在が、大きな要素としてあったかなという感じです。
ちなみに「りんぱな」とは、「星空凛」と「小泉花陽」[久保ユリカが演じた。愛称「シカちゃん」]のカップリングです。)
(5)「応援上映」という新たなる上映形態に出会えた。この存在が、自分自身にとっての映画館を一気に身近な存在にした感覚と感じます。
(→『ラブライブ!』のみならず、『King of Prism』、「honeyworks」シリーズ、『ポッピンQ』が自分の場合は該当。この、応援上映のことについても後述にて言及します。)
(6)自分が本当に大好きな音楽が、「アニメソング」ということを認識できたこと。そして一口に「アニメソング」といっても、奥が深い(及び幅が広い)ということ。
(→特に、いわゆる「デジタルJ-POP」[fripSide、ALTIMA等]は、自分の中で「すとんと落ちる」感じとしてある。それと、曲調を問わず、「アニメソング」[あるいはそれに携わる歌手。「声優アーティスト」を含めて]の魅力として、「情感」の豊かさがあり、それが自分にとって「波長が合う」感じなのかな、と感じます。)
およそ、そのような感じとしてあるのです。
その中でも、特に、まず、「推し」について強く考えさせられた感じとしてあるので、それについて言及したいと思います。
結論から述べると、いわゆる「推し」についての自分の考えは、
「『推し』は、『決める』のではなくて、『決まっていく』ことであると強く思う。より一層述べれば、『推し』はこの人物なのかなと『感じる』ことによって『決まっていく』ということではないか、と思います。」
自分はこう思うのです。これを、自分自身の経験から、述べさせて頂こうと思います。
(http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/otherpress/pdf/20170216.pdf)
上記は、2017年度シーズンの、NHKの新年度人事のPDFです。
この中に、自分の「神推し」が含まれている訳ですが、自分の「神推し」の立場はというと、
「報道チームの一員にいられるだけよいかな。長年の『絶対エース』『生ける伝説』のもとで鍛えてもらえる感じでもあるし。」
「結局来季も、キャスター席の座をつかめなかった。扱い的には申し訳ないけど、同期アナの後塵に映る。」
「でも、『Rの法則』とかにまわされるよりは、まだよかったのかも。『大器晩成』という言葉だってあるのだから。」
およそ、そのような感じです。では、自分の「神推し」のアナウンサーとは、誰のことか。
「田中泉(NHKアナウンサー。愛称「いずみちゃん」。2010年入局。富山→大阪→[2015年から]東京アナウンス室)。」
(自分の場合、2013年のNHK大阪局時代からの大ファン。)
ごめんなさい。スター街道タイプではなくて、(少なくとも現状では)「名脇役」タイプのアナウンサーの感じで。
でも自分、もう、アナウンサーの中では、田中泉アナは、正直、「超絶大好き」という感じなんですよ。
「推し」になった経緯を綴るにあたり、自分が考える、田中泉アナの「特徴」を綴りたいと思います(あくまでも、一つの解釈として読んで頂けると有難く思う感じです)。
(図解3)「自分が考える、田中泉アナウンサー(NHK)の特徴。」
(1)いわゆる「笑顔よし」。NW9異動後は「真顔」状態の頻度が増えたが、特に大阪局時代は、とにかく「いつもニコニコ」。
(2)「読みの技術」に優れ、まずほとんど全く「かまない」。いつだったか、NW9の代打で、栃木の水害(台風によるもの)による緊急報道で2時間の特設バージョンになったことがあったが、ノーミスで乗り切ったほど(そもそも緊急報道はほとんどが突発性であるので、「とっさの機転」が求められるのだが、それを併せ持っているということ)。
(3)「好きな話題」になると、話が止まらないことがある。一例として、「宝塚歌劇団」「ハリー・ポッター」「高校野球」「子ども、教育関係」など。
(4)大阪局時代に、2週に1回、教育関係のコーナーを担当していたが(その名も「ハロー!スクール」)、もはや彼女自身が「童心」。「むずかしいです」「たいへんでした」「できませんでした」のいずれかの言葉が発動されることがしばしばだが、最後は「楽しかったです」「自分が勉強になります」となる感じだったりしました。
(5)「いつだって全力」で、「体当たり」の姿勢。それが持ち味であることがレポーターに充て得る要素としてあるかもだが、頑張りすぎて数日間ダウンしたり、「政治家クラッシャー」状態になってしまうことも(「大阪都構想」「東京都政のこと」)。また、いわゆる「フリートーク」が不得手な一面も。
およそ、このような感じです。
もう、こんな魅力があるんだから!と話し出すと、脱線が行き過ぎそうな感じがするので、という感じですけど、自分はもう、2013年の大阪局異動直後から、「一目ぼれ」「瞬殺」の感じで、瞬く間に「大ファン」になったのです。
なんというか、いわば「純真(ピュア)」を地で行くような感じなんですよね。「打算がない」と換言し得る感じ、と申しますか。
それに加えて、「笑顔を絶やさない」「読みが上手」な感じだし、子どもに関する諸問題のリポートでも、子どもと同じ目線まで姿勢を落として接することができる。
そう。「いずみちゃん」と呼びたくなる(大阪局を退任する際の挨拶で、「いずみちゃん」と呼ばれて嬉しかった云々の挨拶をしています)、「親しみやすさ」。あるいは、「細やかな心遣いができる」ところ。
確かに、田中泉アナ(メジャーな苗字なので、フルネーム表記させて頂く感じですが)よりも、「スター性」のあるアナウンサーは、何人もいるのかもしれません。実際、悔しいですけど、同期である桑子真帆アナの方が、いわば「華がある」感じなのは、正直感じます。まあ、あくまでも「感覚的なこと」にすぎませんし、それに桑子アナも、実は「推し」の一人であるのですが。
ああ、局(の上層部)からはまだ推されていないのかなあ。
どうして、「絶やさない笑顔」「読みの上手さ」が伝わらないのかなあ。
正直、そう思ってしまうのです。尤も、本人が納得できていれば、それでよいのかなの感じですし、
「このままで終わるはずがない!いつか努力が報われるときが、きっと絶対に来るはずだから!」
そう強く抱く感じとしてあるのです。そう、そりゃあ、他のスター性のあるアナウンサーに「推し変」(「神推し」という意味で)すればいいのに(「勝ち馬に乗る」考え方)、それが頭をよぎることは、正直あります。
まあ、桑子アナとか、あるいは和久田麻由子アナとかも、「推し」の一人では、あるのですけど(和久田アナの「発信力」は、彼女だからこその「独特にして天性の才能」と強く抱いていますし)。
でも、田中泉アナが奮闘している姿をテレビで見ていると、不思議と「すとんと落ちる」「心が落ち着く」感覚としてあって、そのときに感じるのです。
「ああ、自分はやっぱり、田中泉アナが『神推し』なんだなあ。これからもずっと推し続けていきたいと強く感じているんだなあ。」
そのように、強く抱く感覚としてあるんですよね。つまり、頭では別のことがよぎることがあろうとも、心では、
「たとえ何があろうとも、田中泉アナを、自分ができる範囲で、ささやかだけど全力で推し続ける!」
そのように、心が叫び続ける感覚としてあるんですよね。
(尤も、「心が叫びたがってるんだ」は、結局観ずじまいで、少し悔いが残りましたが…。)
何がいいたいかといえば、推しは「決める」ものではない。
推しは「決まっていく」存在としてある訳だし、結局それは「個々人の感受性」のこととしてあるのではないか?
自分は、そのように強く感じてならない訳です。かなり話を脱線させたかもしれずで申し訳ないですが。
「推し」のことと共に、「μ‘s」に出会ったことでの、自分自身での大きな変化、いやむしろ、これに出会ったから、『ラブライバー』になったといった方がより適切かもですけど、
「『応援上映』についての魅力と課題。」
について、自分なりに言及させて頂きたく思います。
最初に述べます。まず、
「いわゆる『絶叫勢』であることに、自分は強い誇りを持っている。
いわゆる『応援上映』(絶叫上映)に出会えたからこそ、自分は『μ‘sの18人のファン』『ラブライバー』として一生生きていく!、そう心に強く誓える感じなのだから。」
この想いを、正直強く抱くのです。
だって、「通常上映」の場合、静かにその世界に入り込める一方で、よくも悪くも、スクリーンの中では、ある種「一人の世界」になってしまうので、感動や切なさとかで泣いてしまったら、ただそのままになっちゃいますし、なによりも、「共有し合う」「分かち合う」ことができないんですよね。
それに、自分、映画鑑賞時は、基本的に「最後列中央(あるいは最後列での、その近辺)」を、好んで座るんですけど(特にSMT系列は、最後列がスペースが特に広いのでなおさらです。自分がホームとしているMOVIX八尾も、この一つです)、正直、心の中でつぶやきながら鑑賞したり、それに、「歌うこと」が大好きですので(まあ、上手かどうかといえば、うーん、どうかなあ…?ですけど)、それが「通常上映」だとできないのが、正直きついんですよね。
ですが、いわゆる「応援上映」は、もう、「自分自身の性に合う」感覚なんですよね。
(図解4)「自分が考える、『ラブライブ!』の『応援上映』の魅力。」
(1)スクリーンにいる参加者同士で(そしてそこにいるみんなで)、作品なり楽曲の魅力や素晴らしさを「共有し合える」「分かち合える」こと。
(2)「歌える」こと。勿論、状況に応じてボリュームは絞ったりする対応は必要かなとは思いますが、少なくとも、「歌う」ことで、「情感」をつかめたり、泣きそうな気持ちをこらえたりできる感じですので。
(3)「想いを伝えられる」こと。キャラ名、声優名、カップリング名を叫べたり、「大好きだよー」「かわいいよー」と素直な気持ちを伝えられること。
(4)「コールができる」こと。特に「fwfw」楽曲とか、「はーいはーいはいはいはいはい」とかは、ここが勝負どころだとかで声量や声質とかに変化を付けたりできるので、自分的には「生きた学び」であったりします。
そう。このように、「応援上映」(絶叫上映)は、自分にとっては、実に「性に合う」感覚としてあるんですよね。
最初は、「カルチャーショック」の感じであったのですけど、雰囲気をつかんでいくと、あっ、これだ、これって自分に合うんじゃない?そう強く抱く感じだったんですよね。
リアルの友人、仲間は、先述にて少し言及したように、自分、微力ながら、防災(あるいは復興支援)関係に関わらせて頂いている関係で、まあ、「すごい人間」「ぶっ飛んでいる人間」「尊敬できる人間」がずらりの感じで、年齢的に、自分よりも一回り(あるいは「逆ダブルスコア」とか)くらいか、それ以上に年下なのに、自分がいつも見習うことが多い感じなのです。
でも、趣味の話は、どうしても合わない。それが心苦しかったのですけど、その意味でも、視野をより拡げられる感じで、有難い感じとしてあります。これにより、リアルのこともより活きてくるかな、と思える感じとしてありますし。
ですが、この、「応援上映」。いま、意識的に「応援上映」という表現を用いていますが、自分の中で、考えさせられること、課題と感じていることがあるからでもあるのです。
「μ‘sとみんなのスペシャルステージ」。
これが、『ラブライブ!』の「応援上映」の正式名称でした。
ですが、ファンの間では、いつしか(というか、あっという間に)、「絶叫上映」と称されるようになりました。
ここで重要なことは、運営側は(少なくとも文言上は)、「『絶叫上映』という言葉を『一言も用いてはいない』」ことなのです。
ニュアンス的には、他作品と同じような「応援上映」「声出し可能上映」であったはずであって、「絶叫上映」という意図は、全くなかったはずである、と。
確かに、「応援上映」の場合、『ラブライブ!』でも、
「大好きだよー!」「かわいいよー!」
「ジョルくすこそ我が命!」
「我らが大天使うっちー!」
と、このように、自分が応援上映(ありがとうProjectを含めてです)にてねじ込んだ台詞ですが、確かに、全力でありったけの声を出して叫ぶ意味では、「絶叫」にはなるのです。
ですが、何がいいたいのかと申しますと、
「『絶叫上映』という表現は、明らかな『ミスリード』『齟齬』を引き起こす要素になってしまった。いくつもの課題が噴出したのは、この『絶叫上映』という表現を許してしまったことが少なからず大きいのではないか?」
と、自分は強く抱いているのです。どういうことか。
「応援上映」(→「参加者」『が』「登場人物(キャラ、声優)」『を』『応援』する。)
「絶叫上映」(→「参加者」『が』「登場人物(キャラ、声優)」『に対して』『絶叫』する。)
そう。一見、似たような表現に映るかもですが、
「応援上映」(→「主体」は「登場人物(キャラ、声優)」である)
「絶叫上映」(→「主体」は「参加者自身」である)
少なくとも、自分はこう解釈しています。それ故に、『ミスリード』『齟齬』『勘違い』を誘発することになってしまったのでは?と自分は感じているのです。
先述のように、「声出し可能上映」は、自分はむしろとても肯定的です(むしろ、テイスト的に合致し得る作品であれば、実写、アニメを問わず、もっと普及して然るべきと強く抱く。実写の青春映画、学園映画では特にもっと導入されてもよいのでは?と自分は強く抱いています)。
ですが、この「声出し可能上映」においては、
「(自分たち)参加者は、『登場人物を』最高に輝かせることの『お手伝い』に徹するべき。主体は『登場人物』であって、参加者自身は『サポート』が使命であることを心に留めることが、とても大切なことであるはず。」
このように、自分は強く抱く感じとしてあるのです。
そう。「絶叫上映」という表現が、『ラブライブ!』(μ‘s)では基本的な表現になってしまったが故に、
「ルール(注意事項)に明記されていなければ、何をしてもよい(という勘違い)。」
が、少なからず起こってしまった。その結果、いくつもの問題行為が、(程度の代償はともかく、)まあ、「ありがとうPJ」をも含めて、ほぼ毎週のようにTwitterのTL上に登場する有様で、正直とても悲しかったのです。
そう。特に有名なのが、
(http://yaraon-blog.com/archives/66555)
(http://jin115.com/archives/52090265.html)
(http://yusaani.com/l-ra/t-ra/lovelive/2015/07/21/159317/)
この、「MOVIX宇都宮」の、「劇場版本編」における「座席破壊事件」。
まあ、これは、言語道断なことは言わずもがなです。
ですがそれ以上に、個人的に特にショックだったのが、
「『ありがとうProject』において、『新宿ピカデリー』が、『スタンディングNG(立ち禁)』になったこと。」
理由はいろいろあるのかもしれません(新宿ピカデリーの場合、一つの高層ビルの中にまるごと映画館、という感じになっており、他のシネコンのように、一つのフロアにいくつものスクリーン、という感じとは構造が異なるので、それが影響しているのかもですが)。ですが、『ラブライブ!』の「応援上映」は、やはり「ライブシーン」(あるいは声優の熱演及び熱唱)にこそあり、そして、「スタンディングOK」なのが大きな魅力(これによって、より一層大きな声量を生み出し得る感じになるので)であるだけに、これは特にショックでした。
(ちなみにファイナルライブの本番のLV、SVは、『スタンディングOK』になったので、正直ほっとしましたが。)
自分自身、先述のように「応援上映勢」です。他作品でも、いくつもの作品の応援上映に参加してきました(勿論、大前提としてその作品の世界観なり楽曲なりが好きであることが大切と思いますが。ちなみに、『King of Prism』、「honeyworks」シリーズ、『ポッピンQ』が該当です)。
ですので、「応援上映」におけるNG行為を、自分なりに下記にて言及させて頂きたいと思います。
(図解5)「自分が考える、『応援上映(声出し可能上映)』における『NG行為』。」
(『ラブライブ!』のみならず、他作品をも含めてです。)
(1)「キャラdis」「声優dis」(『μ‘s』の場合、「真姫ちゃんビッチ」が代表例)。
(2)「下ネタ」「淫夢ネタ」(キャラdisと同等のNG行為と自分は考えます。)
(3)「走り回り」「柵越え」「ジャンプ行為」(視界を遮られる、振動が起こりやすい、等の問題が生じ得るため。特にジャンプ行為は、振動を誘発しやすく、他のスクリーンにマイナスの影響を与え得るのでとりわけアウトです。)
(4)「mix」「NGコール」(ここでいう「NGコール」とは、「楽曲の世界観にそぐわないコール」、というイメージです。いわゆる「KKEコール」が代表例。また、「mix」は「NGコール」の象徴と自分は強く考えます。)
(5)「(シリアスシーンでの)行き過ぎた叫び」(物語において制作者側が「特に伝えたいこと(言いたいこと)」に該当する部分や、明らかなシリアスシーン[BGMの曲調等で判別できるはず]では、声出しはしない[出てしまっても控えめの声量にすること]ことが特に大切かなと。これにより、「メリハリ」が生まれ得る感じですし、「のべつ幕なく」はよろしくないかなと強く抱くので。)
他にも「NG行為」はあるかなとは思いますが、自分は特に、上記のことは、「今後の教訓(特に、『Aqours』に向けて)」にしていく必要があると思います。
その一方で、今後、「応援上映」における「推奨行為」(勿論、絶対ではないことは強調されて然るべきですが)もあると思うのです。それは…。
「松竹さーん、ありがとう!」
「ランティスさーん、ありがとう!」
「サンライズさーん、ありがとう!」
これは、『King of Prism』の応援上映において、
「タカラトミーアーツ、ありがとう!」
といったことから、拝借させて頂いた感じで、実際、『ポッピンQ』において、
「東映さーん、ありがとう!」
で、適用されました(というか、ねじ込みました)。
ちなみに、この「ありがとうの気持ち」。
実は、「μ’s」の「ファイナルライブ」において、この「ありがとうの気持ち」は、大きなキーフレーズになったのですけど、自分は、とあるライバーさん(熱烈なかよちん推しで、アイコンもかよちん。ちなみに茨城在住とのこと)から、着想を得たのです(勿論、強い共感からですが)。
名前は伏せますが、その人のツイート、原文のままで用いさせて頂きます(勿論、その人に感謝であるからです)。
「だから、今日と明日は会場に集ったライバーさんたちで、μ'sのメンバーにありったけのありがとうを伝えたい…
5年半の軌跡、そして彼女らが起こしてきた奇跡を振り返りながら、ありがとうの気持ちを込めてコールしたい…」
「僕光でも言ってるじゃないか、涙はいらない、さよならは言わないって…
いつでも、μ'sがスクールアイドルとしての高みという光を追いかけていたなら、俺達はそのμ'sという光を追いかけて居たんだ…だから、絶対さようならなんて言わない、両日とも必要なのは強いありがとうの気持ち、それだけ…」
(ファイナルライブ終了後)
「なので「さようなら」なんて言わない、言えない、言いたくない…
やっぱり、心に湧き上がるのは「ありがとう!」この気持ちだけなんだよね…
元々、根暗がちな性格ゆえに、自分の感情を表に出すことが苦手だったし、嫌いだった…
そんな俺を変えてくれたと言っても過言ではない出会い…」
もう、この人にただただ感謝なのです。うまく言葉にできなくて申し訳ないですけど。
「応援上映」のことについて綴らせて頂いたので、この(その4)の末文にて、「応援上映」が盛んであった劇場リストを、自分なりに綴らせて頂きたいと思います。
(図解6)『ラブライブ!』における『応援上映(声出し可能上映。いわゆる『ありがとうProject』をも含みます)』が、特に盛んであった劇場リスト。
(あくまでも、自分の主観であることを、何卒御許し下さい。)
☆は、自分が応援上映で参加した経験がある劇場。
★は、劇場版本編がロングランされた、あるいは最終上映が応援上映であった劇場。
※は、劇場版本編が2016年6月に再上映された劇場(応援上映かどうかは問いません)。
○は、「ありがとうProject」において、アニメ版のオールナイトが開催された劇場。
(1)新宿ピカデリー(★)(※)(○)
(2)川崎チネチッタ(☆)(★)(※)
(3)MOVIXさいたま
(4)京成ローザ10(★)(※)
(5)MOVIX伊勢崎(★)(※)
(6)札幌シネマフロンティア
(7)ミッドランドスクエアシネマ(☆)(○)
(8)TOHOシネマズ東浦(★)
(9)大阪ステーションシティシネマ(☆)(※)(○)
(10)なんばパークスシネマ(☆)(★)
(11)MOVIX京都(☆)(★)
(12)MOVIX倉敷(※)
(13)T・ジョイ博多
およそ、このような感じです。
では、すみません、続きを(その5)にて綴らせて頂きたく思います。