「『3・11』からの復興の具現化のために大切であると強く考えること(総論。その2)。」

 こんにちは。愛球人と申します。

 

 「愛球人ホームページ。」、第3回のブログエントリーの論題は、「『3・11』からの復興の具現化のために大切であると強く考えること。」です。

 

 実質的には、ブログエントリーの本論の2回目になります。今回は、「伝えたいことを読み物的に書き綴るエントリー」ですので、コメント欄はないことを、御理解頂けると、とても有難く思います。

 また、私のHPにおけるブログは、過激な内容がどうしても多くなることかと思いますが、今回は、とりわけ過激になってしまうかな、と正直感じております。読者の中には、私の考えに共感できない、と考える人間も少なからずいるかなと思いますが、こういう考えもあるんだ、と解釈して御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 

 今回は、とても長い文章になるので、(その1)(その2)(その3)に分割して執筆します。

 そして今回は、自分なりの「『伝える』ことを通しての自分なりの中長期的な復興支援」というテーマでの、「総論」的な内容と位置付けてのエントリーであることに、御留意頂けると有難く思います。その上で、何卒最後まで御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 

 では、(その1)の続きから、考察を始めます。

 

 

  「1・17」。当時、自分は10歳、小学4年生でした。

 当時の自分が、子ども心に感じていたこと。それは何か。

 

 「政府や役所の人間は、自分たちの心の叫びを本気で聴いてくれているのだろうか。感覚的にだけど、そのような感じを覚えないのだけど。」

 

 これはあくまでも、子ども心に抱いていた感覚です。しかし、後に、自分は、このような思いを、ある種の確信として強めることになっていきました。

 

 そう。子ども心に抱いていた感覚。時計の針を少し戻しましょう。

 1993年6月18日。内閣不信任案可決。当時、自分は8歳、小学3年生でした。

 当時の首相は、宮澤喜一さん。ちなみに、7月18日、衆議院議員解散総選挙において、自由民主党は過半数割れ、つまり敗北、そして政権交代とあいなりました。

 このとき自分が抱いていた子ども心の感覚。それは何か。

 

 「うわー、漠然とだけど、何かすごいことが起ころうとしている。」

 

 そう。当時は、「55年体制」といわれており、自由民主党の「一党優位政党制」が、1955年から、およそ38年間にわたり、君臨し続けてきました。

 内閣不信任案可決。そして、その後の衆院選での自民党の敗北。

 社会って、変えることができるんだ。子ども心に、ある種の「わくわく感」を強烈に抱いてならなかった。あのとき、テレビの選挙速報に、食い入るように見つめていたことを、いまでも強烈に記憶として焼き付いております。

 

 後に、大学の卒業論文のテーマを、「55年体制の政治過程」として執筆しました。

 学部時代は、政治学を専攻していました。その後、クロスラーニングという方法で、修士で教育学を学びたかったのですが、あえなく失敗しましたが。

 いずれにせよ、自分にとって、卒業論文は、永遠の心の宝物です。

 枚数にして、実に56枚。注釈の数、実に70。参考文献、実に56冊(論文や新聞縮刷版を含めてですが)。

 少なくとも、ボリュームだけならば、修士論文に匹敵し得る「作品」に仕上がっている、と自負しております。

 

 この卒論のテーマの出発点も、「1・17」の被災経験でした。

 大学2回生になるときには、これを書きたい、と心の中でおよそのテーマは決めていましたから。

 

 そう。もう一度、先述の、子ども心の2つの記憶の文章を、記してみましょう。

 

 「うわー、漠然とだけど、何かすごいことが起ころうとしている。」(1993年7月18日。55年体制の事実上の崩壊。)

 「政府や役所の人間は、自分たちの心の叫びを本気で聴いてくれているのだろうか。感覚的にだけど、そのような感じを覚えないのだけど。」(1995年。震災に対する政府や役所の姿勢に対して自分が感じたこと。)

 

 この2つの子ども心の感覚は、ああ、そういうことだったのか、と、卒業論文研究に励む過程で、ある文献の中の言葉を目にして感じました。そしてそれは、今回の『3・11』に、自分なりに向き合う過程においても、強く感じることです。

 では、「1・17」のときの率直な感覚を示す言葉、そして、「3・11」のときの率直な感覚を示す言葉を、それぞれ記します。

 

 

 「政官財の鉄の三角形」。(「1・17」における、日本政治の震災対応の遅れの背景といわれる要素。森田実さん[政治評論家]の言葉)

 「利権談合共産主義」。(「3・11」における、日本政治の震災対応の遅れの背景といわれる要素。勝谷誠彦さん[コラムニスト]の言葉)

 

 

 それぞれの言葉を、聞いたことがない、という読者は、恐らく少なくないと思います。ずいぶん過激な言葉だなあ、と恐らく感じられるのではないでしょうか。

 それぞれの言葉についての、自分なりの解釈を、下記に示してみましょう。

 

 

 「政官財の鉄の三角形」(政[政府及び自民党]、官[官公庁]、財[財界及び圧力団体]の三者による金権主義的相互依存関係のことである。利益供与を求める圧力団体、セクショナリズムが横行する官公庁、そして、集金及び集票マシーンを求める政府及び自民党の三者の思惑が相互に一致したが故に成立し得る原理である。)

 「利権談合共産主義」(政[政府及び政権与党]、官[官公庁]、財[財界及び圧力団体]、メディアの四者による利権主義的相互依存関係のことである。ブランド力あるいは広告収入を堅持したいメディア、利益供与を求める圧力団体、セクショナリズムが横行する官公庁、そして、集金及び集票マシーンを求める政府及び政権与党、の四者の思惑が相互に一致したが故に成立し得る原理である。)

 

 

 そう。上記の2つの言葉こそ、日本の「政治文化」を象徴する言葉、概念、と表現し得るでしょう。かつて、「タテ社会」「甘え」「閉塞」といった言葉が、日本の「政治文化」として語られてきましたが、正直、そのような概念では説明しきれない、むしろ上記の2つの言葉(特に後者)こそ、現在の日本の「政治文化」を表現するのに最も適切な表現であるように、自分は映るのです。

 

 子どものときの、55年体制崩壊当時の衝撃の記憶、不思議と興奮したことの記憶からか、「政局」は、自分の中では、ある種興奮しがちな傾向に映ってしまいます。

 観ている分には、どのような展開になるのだろう、とある種面白がることも、正直少なからずありますし、政治のある種のどろどろ性に魅せられて、政治学を専攻するようになったことは正直あります。

 ですが、「政局」に明け暮れる傾向の強い、日本の政治、社会の傾向が、果たしてそれが正しい道といえるのか、疑問符感が否めないのは、自分だけでしょうか?

 

 「政局」至上主義的な傾向なことは勿論、政官財、そしてメディアをも含めて、果たして、国民、現地の人間(「3・11」に置ける被災者)、そして社会的弱者(子ども、高齢者、女性、低所得者、等々)の方向を向いているのだろうか、と正直強く感じる訳です。

 とりわけ、強く感じることとして、メディアが、ちゃんと国民の方向を向いているのですか?と感じる訳です。

 

 

 どういうことかといえば、日本のメディア(特に東京メディア。とりわけテレビ)には、「ジャーナリスト精神」が乏しい、と正直感じるんですよね。例えばアナウンサー(特に女性)には、「アナドル」的要素が、良くも悪くも強い感じであるのが、少なからず散見されるように、自分には映ります。

 もちろん正解は一つではないですし、アナウンサーにもそれぞれ持ち味があるとは思います。ですが、日本の場合、報道番組とかを見ると、ある種の「気骨」を感じる番組やアナウンサーが、数えるほどしか感じないと思うのは、うちだけでしょうか?

 

 勿論、東京メディアでも、このアナウンサーは気骨あるなあ、という人間は、少数ながらいる感じはしますし、メディア人の鑑といえるアナウンサーも、何人か思い浮かぶことも正直感じます。

 ですが、例えば、米国の「ABCナイトライン」を見ると、日本を代表する報道番組「NHKニュース7」でさえ、ある種の物足りなさを感じてしまうのです。

 要するに、米国の報道番組には、「ジャーナリスト精神」が伝わってくる。新聞における「ニューヨークタイムズ」に、ある種の権威性を感じるのも、「ジャーナリスト精神」が、紙面の端々に伝わってくるからでしょう。その一方で、日本の報道番組は、淡々と伝えるだけならばまだしも、それさえにもなっていない、ある種迎合的な感じにさえ映るものも、正直感じたりします。

 

 

 「東京は平壌である。」

 勝谷誠彦さんは、このようなことを評していますが、表現が誇張的であるように映りますけれども、主旨としては、「東京メディアでは本当のことがいえない。」ということを言いたくて、意識的にこのような誇張的表現を用いているのでしょう。

 

 「たかじんのそこまで言って委員会」という番組があります(読売テレビ。NNN系列の番組であるが、主宰のやしきたかじんさんの意向もあり、日本テレビでは恐らくまず放送されない)。

 とりわけ、関西人の読者ならば、観たことがある、よく観ています、という読者も、いらっしゃるかもしれません。確かに、あの番組ほど、少なくとも現時点において、(まあ、超が付くほどに過激であったりするのだが)本音を闘わせる番組は、そうはないなあ、と正直感じる訳です。

 

 尤も、東京メディアでも、例えば、NHKが不定期に放送している「NHKスペシャル シリーズに日本新生」とかのように、視聴者との双方向型討論番組を放送するようになってきていますし(ただ、個人的には、そのような双方向型討論番組をもっと充実させるべきであると思っていますが)、何よりも、昨年の10月から12月に掛けて放送された「家政婦のミタ」(NNN。水曜日22時枠にて放送された。最終回は視聴率40・0%という金字塔を打ち立てる等、もはや社会現象になった)は、東京メディアもやればできるやん、と、正直衝撃でした。

 

 

 「家政婦のミタ」が社会現象になったことには、いくつかの理由があるでしょう。

 勿論、それには、遊川和彦さん(脚本家)、松嶋菜々子さん(主演)、NNN(日本テレビ)それぞれが、勝負を掛ける位置づけ的な作品として、並々ならぬ意気込みであったこと、長女役の惣那汐里さんの感情表現豊かな非凡な演技、ということも、一つの要素ではあるでしょう。

 しかしそれ以上に、これほどまでの社会現象になったのは、下記のことを、「家政婦のミタ」が、訴え掛けたかったことが、視聴者の心に届いたことの表れなのかな、と正直感じる訳です。あくまでも自分の解釈ですが。

 

 「家族」「絆」「愛」「心の居場所」「人間の心の悲しみ」。

 

 より一層深く述べれば、ミタ、阿須田家、うらら、彼女たち一人一人の奏でる物語と、「3・11」で現地に生きる人間、そして復興支援に携わる人間が、「絶望から自分は必ず蘇る!」、それが重ね合わさって映り、それが共感を呼び、社会現象、そして心底湧き上がる涙へと結びついたように映る、そのように自分は解釈している訳です。

 

 「家政婦のミタ」の衝撃。これほど心を激しく揺さぶられたドラマは、自分の中では「女王の教室」「14歳の母」等、正直数えるほどです。

 しかし、それならば、現実の日本社会において、「社会をよりよくできる」、そう感じさせるリーダー的存在がどれほど思い浮かぶのか、となると、数えるほどしか思い浮かばない訳です。少なくとも、自分の中では。

 では、それに該当し得る存在は誰か。自分なりの解釈を、下記に示してみましょう。

 

 

 橋下徹さん(大阪市長。前大阪府知事。大阪維新の会代表)。

 河村たかしさん(名古屋市長。元衆議院議員。減税日本代表)。

 桑原悠さん(津南町議[新潟県]。昨秋、25歳の若さで現役大学院生として町議にトップ当選)。

 

 

 他にも、何人か「次世代リーダー候補」はいらっしゃるかもしれません。ですが、ある種の「カリスマ性」「芯の強さ」を強く感じさせるのは、自分は、上記の3人かな、と正直強く感じる訳です。

 このうち、桑原さんについては、少し補足すれば、現役大学院生というのは、東京大学の公共政策大学院のことです。自分と同じ「若い世代」だからこそ、その強い情熱に、応援したいと強く感じさせる感じがするのでしょう。

 

 思えば、昨秋の「大阪ダブル選挙」。

 自分は、現在、大阪市民ですが、大阪ダブル選挙は、恐らく壮絶な激戦になるであろう、と思っていました。

 しかし、ふたを開けてみれば、維新の完勝。特に若い世代は、維新に対して絶大なる支持であった感じでした。

 

 「ドットジェイピー」。厳密には純然たる学生団体ではないのですが、この団体からできた派生ユニット「SNK27」の存在は、若い世代が社会を動かせることの大きな原動力になったように映ります。

 (SNK27とは、「SeNKyo27」、つまり、「(11月)27日に選挙に行こう」という意味で結成された、学生有志による期間限定での派生ユニットです。)

 それより少し前に、つまり、10月23日、新潟県津南町議会選挙で、桑原悠さんが、1144票(有効投票数のうちおよそ20%を荒稼ぎしたとのこと。ちなみに定数は16。人口そのものがおよそ1万人余りである)で、圧倒的強さでトップ当選を果たして話題になりましたが、このことも、「若い世代が結束すれば社会をよりよくできる。」ことを立証し得る要素になったといえるでしょう。

 

 ちなみにこの津南町。「魚沼産コシヒカリ」の産地の一つですが、いわゆる「もうひとつの被災地」でもあります。

 そう。「3・11」といえば、東北のことは言わずもがななのですが、その翌日に、長野と新潟の県境付近での震度6強(M6.7)が起こり(長野県栄村。その隣の新潟県津南町が震度6弱)、「もうひとつの被災地」とは、このことであります。

 「もうひとつの被災地」があることを認識して欲しい。このようなある種の心の叫びが、若い世代の結束を生み出し、悠さんを地方政界に送り出す原動力になったように、自分は映るのです。

 

 このように考えると、たとえが不適切かもしれず申し訳ないのですが、自分は、先述の3人を、強烈なリーダーシップの持ち主の畏敬の念を籠めて、下記のように考える訳です。

 

 

 橋下徹さん(レブロン・ジェームズ)

 河村たかしさん(ドウェイン・ウェイド)

 桑原悠さん(クリス・ボッシュ)

 

 

 上記のような感じでしょうか。これは、NBA(米国バスケットボールリーグ)のマイアミヒートの「スリーキングス」になぞらえております。「スリーキングス」も、3人ともに強烈な存在感の持ち主ですから。

 あるいは、少し世代を上げてみれば、1990年代における、「第2次スリーピート(3連覇)」達成時代の、シカゴブルズにおける、それぞれ、「マイケル・ジョーダン」、「スコッティ・ピッペン」、「デニス・ロッドマン」のような感じかもしれません。

 イメージ的には、橋下さんは「良くも悪くも圧倒的な個人能力で勝負を決めてしまう」、河村さんは「いざという勝負どころで決定的な仕事ができる」、桑原さんは「縁の下の力持ち的役割をこなしつつ、勝負どころでの爆発力を併せ持つ」、という感じからです。まあ、率直に言って、自分の独断全開であることが否めないですけれども。

 

 

 いずれにせよ、何が言いたいのか。

 

 「『利権談合共産主義』を徐々にでも解体的再編することこそが、日本社会をよりよくし得ることに寄与し得ると考える訳であり、それこそが、『3・11』の真の復興の具現化になり得るのではないか。

 しかし、『1・17』が、復興に想像以上の時間を要した(少なくとも、経済的復興には10年を要したと自分は解釈している)ことをも考慮すると、そして、『3・11』の複雑性をも考慮すると、復興には、想像以上の時間及び労力を覚悟せねばならないし、だからこそ、中長期的スパンでの息長い支援が絶対不可欠と考える訳である。

 だからこそ、強く感じることとして、『何らかの形で、学生、若い世代が力を合わせて、復興支援へのムーブメントを生み出すことはできないか?』、あるいは、『復興にスピード感と深みが生み出され得るためには、若い世代の間で、息長い支援の輪を拡げ深め得ることのアイデア、工夫が必要ではないか?』、と自分は強く考える訳である。」

 

 あくまでも、現時点での自分なりの問題意識として、ということに過ぎませんが、自分としては、上記のことを、強く抱く訳です。

 

 

 という訳で、長い文章になりますので、続きを(その3)にて記します。

 何卒、最後まで御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 

 よろしく御願い申し上げます。