「『3・11』からの復興の具現化のために大切であると強く考えること(総論。その1)。」

 こんにちは。愛球人と申します。

 

 「愛球人ホームページ。」、第3回のブログエントリーの論題は、「『3・11』からの復興の具現化のために大切であると強く考えること。」です。

 

 実質的には、ブログエントリーの本論の2回目になります。今回は、「伝えたいことを読み物的に書き綴るエントリー」ですので、コメント欄はないことを、御理解頂けると、とても有難く思います。

 また、私のHPにおけるブログは、過激な内容がどうしても多くなることかと思いますが、今回は、とりわけ過激になってしまうかな、と正直感じております。読者の中には、私の考えに共感できない、と考える人間も少なからずいるかなと思いますが、こういう考えもあるんだ、と解釈して御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 

 今回は、とても長い文章になるので、(その1)(その2)(その3)に分割して執筆します。

 そして今回は、自分なりの「『伝える』ことを通しての自分なりの中長期的な復興支援」というテーマでの、「総論」的な内容と位置付けてのエントリーであることに、御留意頂けると有難く思います。その上で、何卒最後まで御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 

 では、今回のエントリーにおける考察を始めます。

 

 

 1995年1月17日。「阪神淡路大震災」。

  当時、自分は10歳、小学4年生、西宮(兵庫県)に住んでいました。

 

 「お母さん、おはよう。」ふわー、と目覚めて起きた。

 さあ、いつものように朝御飯。と思いきや…。

 かつてない激しい揺れ。もう、凄まじい、恐ろしい都市化、表現のしようがない感じでした。

 

 何が何だか、正直訳がわかりませんでしたが、少しして外に出ると、猛烈なくらいの快晴でした。

 しかし、その一方で、壊れた家が少なからずある感じ。停電、断水は言わずもがな。電話もまともに機能しない。

 何も食べる気がしない。確か、ポカリスエットを少し飲んだくらいしか覚えていません。

 

 当時の自分の自宅は、西宮といっても、芦屋との境目で、いわゆる苦楽園の麓(ふもと。駅でいえば、阪急甲陽線の苦楽園口駅から20分くらい歩く感じ)のあたりでした。確かに少し北に歩けば、いわゆる高級住宅街になるのですが、自分の地区は、そこから少し降りた感じの場所でしたが。

 ちなみに、高校野球の聖地である「阪神甲子園球場」も、西宮にありますが、電車で3回乗り換えて、という感じですので、西宮時代は、高校野球や阪神タイガースの試合の観戦後は、阪神西宮駅からタクシーが多かった感じですが。

 

 で、「1・17」の翌朝、血が少し混じったげろを吐きながら、とにかく逃げる一心で、のろのろの感じながら、自宅から阪急西宮北口駅まで、およそ5kmの道のりを、2時間以上かけて歩きました。

 母方の実家が八尾(大阪府)にあるので、そこまで疎開するためです。「1・17」の翌日、電車は、阪急神戸線については、西宮北口駅までは復旧していましたから。

 ちなみに疎開生活は、およそ2か月間。疎開先の小学校では、自分を温かく優しく接してくれたことは勿論、決して特別扱いせず、純粋に一人の人間として接してくれたことが、いまでも強烈な記憶として残っています。

 

 実は、震災直前に、西宮市内のとなりの小学校から転校したばかりでした。そう、転校してわずか8日で、「1・17」でした。その翌朝に疎開。で、2か月間の疎開生活。

 で、小学5年生になるときの始業式。当時の自分の学級には、3人の転校生がやってきましたが、その3人の自己紹介が終わるや否や、地鳴りの如き自分のコール。もはやそれに押され、完全に転校生扱いでのスタートでした。ですが、幸い、小5、小6のときのそれぞれの担任の先生には、一際優しく接し、励まして頂き、とても感謝の思いです。勿論、この2人の担任の先生は、いまでも年賀状のやりとりをさせて頂いております。

 

 そして、自分の場合、転校直前の小学校時代の級友の女子児童を1人亡くしました。泣き虫で傷付きやすく繊細な自分に対して、いつも優しく接してくれたのが、彼女でした。しかし、自分は、生前、彼女に対して、優しく接することができませんでした。それは、恐らく一生の後悔となることでしょう。

 彼女は、弟を抱きしめるようにして逝ったと伺います。そのような彼女から学んだことは、「思いやり」です。決して目立つ感じの人間ではなかった。でも、思いやりは人一倍旺盛であった。学級がもめているとき、そっといさめてくれる感じ、それが彼女の持ち味であったと記憶します。よく気が付く人間であったともいえるでしょう。

 

 だからこそ、自分自身、彼女の「魂」が、自分の内面に永遠に生き続けると強く信じていますし、彼女の魂に絶対に恥じない人間になることが、彼女への供養と信じる。

 自分にとって、「1・17」の被災経験は、永遠に自分の「心の原点」であり続けると強く思いますし、自分の生き方において、「1・17」の経験を絶対に活かさねばならない、と強く思う次第です。

 

 

 で、自分が現時点で強く抱くことは、下記のことです。

 「『阪神淡路』での自分の経験を基礎にして、『東北』の子どもを、中長期的に息長い支援を、とりわけ『精神的支援』、つまり、『生きる希望』の種を蒔いて、それを膨らませて、『志』を叶え得ることの一助になりたい、そういう支援に中長期的に携わりたい。」

 このことが、現時点での自分の「志」として、強く抱く訳です。

 

 もともと、自分自身、子ども大好き人間です。

 より一層深く述べれば、「子どもの笑顔」が自分自身の「最高の喜び」と強く自負してならない人間です。

 何故ならば、子どもには、一人一人それぞれが、かけがえのない「個性」「可能性」を授かっている。いくらでも成長できるし、「志」「希望」を膨らませることができる。素敵で純粋な「笑顔」の持ち主でもある。そのように考える訳です。

 

 だから、自分は、「子どもの『志』を叶え得ることの一助になり得る、子どもの内面に親身に寄り添える教育者」に絶対になりたい、と強く思う訳です。

 

 正直、紆余曲折はありましたが、ずっと、もちろん現在でも、「子ども」への思いは、強く抱き続けております。

 ですが、現在は、教育者への思いを強く抱きつつ、学校のみならず、NPO等の道にも、強い興味を抱いている、という感じである訳です。

 

 

 そのように考えるのは、「3・11」における復興支援に参加するようになったから、ということが、正直強くあります。

 

 現在、自分は、「Youth for 3.11」(以下、YF3あるいはYouthと略して表記します)という、学生ボランティア団体に参加させて頂いております(厳密には、まだ運営メンバーの一員ではありませんが)。

 自分にとって、YF3との出会いが、自分自身の成長の大きな契機になっている感じがあるからです。

 

 「1・17」、つまり、「阪神淡路」の経験が、自分にとっては、「心の原点」として強くある。

 「1・17」なくして、現在の自分はない。そう強く信じてならない訳です。

 

 そのような自分にとって、2011年3月11日、「東日本大震災」は、自分自身、「1・17」でして頂いた感謝の思いから、今度は自分が支えなきゃ、何かしたい、しなければ、という一心でした。

 そのような中で、YF3との出会いがあった訳です。

 

 一旦大学を卒業して、社会人(といっても、塾の非常勤講師が主体ですが)を経て、学生に復帰した自分にとって(尤も、通信制大学の仲間も、さまざまな世代の仲間と出会えて、とても刺激的ですが)、「学生(若い世代)だからこそできる復興支援」をうたうYF3との出会いは、自分自身にとって強い衝撃でした。

 YF3を通して、2011年9月、2週間、石巻及び南三陸に、ボランティアに参加させて頂きました。そこで学んだことはいろいろとありますし、生き方、価値観、世界観等を、根底から激しく揺さぶられる感覚でした。

 

 それ以上に、自分自身を激しく揺さぶった感じであったのが、YF3で出会った仲間の存在です。

 簡潔に述べれば、「違いを認め合える仲間に出会えた。」という感じですね。自分が求めていた出会いが、やっとできた、という感じでしょうか。

 

 だからこそ、自分の中で、ふつふつと抱くようになっていった思い。

 「1・17」という心の原点。「3・11」という心の転機。

 より一層深く述べれば、「1・17」の経験が自分の基礎として強くあり、「3・11」を通して、自分自身の生き方を問い直している感じを強く抱いてならない。

 

 「3・11」があったからこそ、自分は、見失いかけていた「生きる勇気」を強く抱くことができるようになり、素敵な出会いができるようになった。

 しかし、「3・11」では、復興に向けて悶え苦しんでいる人間、場所が少なからず存在する。

 

 誇張的な表現になるかもしれないけど、何もかもを失った子どもが少なからず存在するように思えてならない。誰かが動かねば、誰かが救いを差し伸べねば、絶望のどん底から救われない子どもを少なからず引き起こすことになりやするまいか、と強く危惧してならない。

 「阪神淡路」での自分の経験を基礎にして、「東北」の子どもを、中長期的に息長い支援を、とりわけ「精神的支援」、つまり、「生きる希望」の種を蒔いて、それを膨らませて、「志」を叶え得ることの一助になりたい、そういう支援に中長期的に携わりたい、という思いを、自分は強く抱くようになっております。

 それを具体的にどのように具現化していくのか、ということを模索しているのが、現時点での自分自身としてある訳です。

 

 

 そういう感じである、ということが、正直な思いですが、だからこそ、強く抱く思いが、正直ある訳です。

 

 という訳で、長い文章になりますので、続きを(その2)にて記します。

 何卒、最後まで御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 

 よろしく御願い申し上げます。