「2012年新春、一人の人間として、受験に向き合う子どもに伝えたいこと。」

 こんにちは。愛球人と申します。

 

 「愛球人ホームページ。」、第6回のブログエントリーの論題は、「2012年新春、一人の人間として、受験に向き合う子どもに伝えたいこと。」です。

 

 実質的には、ブログエントリーの本論の5回目になります。そして、子どもブログエントリーの1回目になります。

 今回の位置付けは、「伝えたいことを読み物的に書き綴るエントリー」ですので、コメント欄はないことを、御理解頂けると、とても有難く思います。

 また、私のHPにおけるブログは、過激な内容がどうしても多くなることかと思いますが、今回は、歌劇といいますか、良くも悪くも感性に多くを委ねる感じの文章になるかな、と正直感じております。読者の中には、私の考えに共感できない、と考える人間も少なからずいるかなと思いますが、こういう考えもあるんだ、と解釈して御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 という訳で、今回は、書簡スタイルの文章を、試みたいと思う次第でございます。

 

 では、今回のエントリーにおける考察を始めます。

 

 

 「受験と向き合う子どもへ。

 

 自分が生まれ育つ、関西圏では、例えば、中学受験は佳境に入っており、高校受験はそろそろ本番が近付き、大学受験は、国公立組はセンターを終えて2次に向けての追い込み、私立組はいよいよ明日から「関関同立」の本番が開幕であろうかと思います。

 

 正直、自分は、受験に対して、苦い思い出が主体になってしまっている感じです。特に大学受験について述べれば、正直、悔しさばかりが残っている感じです。かろうじて現役で第3志望校への進学をつかむのが精一杯でしたから。

 

 自分自身、「子ども大好き人間」であると強く自負しております。

 かけがえのない個性。ありったけの可能性。飾り気のない素敵な笑顔。

 うまく言葉でいえないのですが、「子どもの笑顔」が自分自身の「最高の喜び」であると強く自負しております。ある種不思議な感覚を抱くのですが、「子どもの笑顔」からは、「生きる希望」「生きる勇気」をもらう感じを抱くことが少なからずあります。

 

 それは、恐らく、「子どもの笑顔」は、「飾り気がない」と感じるからでしょう。

 つまり、「純粋無垢」。「ありのまま」、ということかもしれません。

 

 そう。自分が今回、最も「伝えたいこと」は何か。

 

 

 「『志』を高く持て」。「夢は心の栄養素」。「『なりたい自分』を思い描き、どれほど苦しくとも、叶えたい道に向かって貪欲に突き進んで欲しい」。

 

 

 「こういう人間になりたい」。「こういう道に携わりたい」。

 そういう、「なりたい自分」、換言すれば、「志」あるいは「目的意識」を強く抱いて欲しい、と思う訳です。

 

 かくいう自分自身、何らかの形で「子ども」「教育」に携わりたい、という思いは、高校3年生の時から、ずっと抱き続けてきました。

 ただ、これは自分自身の内面が、どこか少なからず弱いからなのか、もう、20歳代も半ばになっても、未だに「生き方模索」にもがいてしまっている有様です。

 

 「子ども」「教育」「復興」。携わりたい道のキーワードは、明確化しつつある感じではあります。

 ですが、自分の場合、それを、現時点においては、「教職」「NPO、NGO」、いずれの道で具現化したいのか、今年は、それを自分の中で見定めることが求められる年であるように、正直感じている次第です。

 

 

 「優しい心」「芯の強さ」「他者を引っ張る経験を積む」「感じることを言葉にする」「なりたい自分のイメージを描く」「自分自身と向き合う」。

 「人間として大切なこと」ということとして、自分が、一人の人間として、子どもに伝えたいことは、正直、たくさんあります。

 そして、「子どもと共に学び遊び成長できる人間になること。」、このことが、ある種、自分が強く抱く理想像として抱いている訳です。

 

 ですが、今回、「受験に向き合う」子どもに伝えたいこと。それは何か。

 

 

 「挫折を恐れないで。挫折は人間を成長させる大切な要素だから。そして、『自分自身のために』受験において完全燃焼して欲しい。」

 

 

 「挫折を恐れないで」、とここに記しました。そして、「挫折は人間を成長させる」とも。

 おい、失敗しろ、といっているのか、と映るかもしれません。「成功を願っているよ」と言ってよ、みたいな。

 勿論、受験において、最高の結果を叶えて欲しいと強く希求するのは言わずもがなです。

 しかし、どれほど努力しても、受験本番においては、あらゆる要素が複合的に重なり、それがプラスにもマイナスにも作用し得る、それが受験本番であると思うのです。

 

 自分の経験を述べれば、例えば、第1志望校の本番(「関関同立」に該当する学校です)では、突如英語で試験問題の傾向が変わり、それに対応し切れなかった(英語は実は苦手科目だった。そして現在でも苦手である)。

 第2志望校の本番では、A日程とB日程があり、B日程に出願しておけば、恐らく受かったであろうと思うのですが、結局、A日程のみを出願しました(当時はA日程が最大2日、B日程が最大3日あった)。そこで既にプランニングミス。心のどこかにある種の緩みがあったのかもしれません。

 そして、模試でも、少なくとも、高校3年生においては、日本氏は絶対的な得意科目で、いつもハイパフォーマンスである自負があったのに、第2志望校のA日程の本番で、「あえて挙げれば不安分野」と抱いていた、原始時代、社会経済史の集中砲撃に対応し切れず、かつてない恥辱的惨敗。この恥辱感は、9年経った現在でも、強烈に心にこびりついております。

 

 いまにして思えば、極度の緊張感からか(現に、実は現在でもそうなのだが、「あがり性」である。しかし、受験本番当時の自分は、緊張感さえ分からなくなっているくらい、恐らく極度の緊張感であったように考えられる)、日本史でかつてないくらいに失速した。

 受験本番において、絶対的な得意科目の日本史で大量貯金をして(はっきりいうが、少なくとも90%は獲れる自信があった)、国語は高3でかなり自信を付けたので70%台半ば(特に現代文は高3で最も自信を付けた分野だった)、苦手の英語は基礎を確実に得点する、そういうスタイルでした。

 少なくとも、関西圏の有力私大(主として「関関同立」)の受験本番においては、英語、国語、日本史の順の配点比重なんですよね。英語の苦手な自分には、ある種不利である訳です。

 

 結局、第3志望校で現役合格できたのは、特殊な「傾斜配点方式」に救われたからです(第2志望校もそうですが、いわゆる「産近甲龍」の一翼の学校である、とだけ述べておきます)。

 日本史200点、国語150点、英語100点。合計450点。70%を合格ラインと見込んで、結局、日本史と国語(特に現代文)にものを言わせて逃げ切った、そういう感じでした。

 尤も、「関関同立」では、事実上、自分のようなスタイルの傾斜配点すがる方法では、現在でも通用しない感じである訳ですが。

 

 ただ、自分が大学受験本番で挫折した大きな要因の一つとして、下記のことがあるように思うのです。

 「はたして、『自分自身のために』受験に臨むことが、どれほどできていただろうか。どこか異なる方向を向いている部分があったのではないか。」

 そう。自分の場合、大学受験には、正直「悔いが残っている」部分があります。

 尤も、第3志望校に進学したからこそ、よかったこともたくさんあるので(特に他大学との単位互換や、憩いの場所を少なからず見つけられたこと、あるいは、遠距離通学だからこその時間の使い方や勉強の仕方のコツ等)、それはそれでよかったのかな、とも思っていますが。

 

 

 で、「自分自身のために」。これはどういうことか。

 勿論、御世話になっている人間を大切にする姿勢は、言わずもがなです。家族、先生等。

 ですが、せっかくの授かった生命なんですよね。それを大切にして欲しい、と強く願うんですよ。

 で、特に日本の場合、大学受験の結果が、その後を少なからず左右する傾向にあることは否めない。あのときこうすればよかった、が、その後に暗い影を落とす要素が少なからずあると思うんですよね。

 

 何が言いたいのかといえば、下記のことが大切ではないか、と自分は思うのです。

 

 「『なりたい自分』に絶対になりたい、そのために、強い『目的意識』を持って欲しい。」

 

 これが大切であると思うんですよね。

 「こういう人間になりたい、あるいは、こういう道に携わりたい。その実現のために、大学でこういう分野を学びたい。だから、受験勉強に全力で打ち込む。」

 そのような強い意識をどれほど持てるか。目的意識を強く抱くことができれば、万一、結果的に不完全燃焼の結果になってしまったとしても、「やれるだけのことはやった。」と思えるはずではないか、と思うのです。

 

 で、「挫折は人間を成長させる。」と自分は述べましたが、遅かれ早かれ、挫折を経験することは、恐らくあると思うんですよ。

 ですが、挫折を経験する際、何か自分に「足りないところ」があることに、気付かされるのではないかな、と思う訳です。すぐには気付かないかもしれませんが。

 「足りないところ」に気付いたとき、それを克服しようと努力する。そして、試行錯誤の末に、克服できたとき、人間は大きな成長を遂げることができる、と自分は信じている訳です。

 

 そう。挫折の経験は、短期的には、とても辛く悲しく悔しいことでしょう。

 ですが、中長期的な視点で考えれば、足りないところを克服しようと努力できるし、挫折から学ぶことは、たくさんあると思うんですよね。

 

 

 いずれにせよ、「人間は、学び続けることを通してこそ成長できる」。

 自分は、そう強く信じている訳です。

 「持てる全力を出し切って欲しい。積み重ねた努力の決勝を、答案に思いを籠めてぶつけて欲しい。そうすれば、絶対に素敵な結果が待っているはずだから。」

 このことを、子どもに伝えたい、と強く思います。

 

 「志」に向かって生きる子どもを、全力で応援しているよ。

 

 愛球人。」

 

 

 長文、駄文、とても申し訳ございません。

 未熟な自分で申し訳ないですが、今後とも何卒よろしく御願い申し上げます。