「『3・11』から間もなく1年を迎えるにあたって思うこと(心に光を灯し続ける思い)。」

 

こんにちは。愛球人と申します。

 

 「愛球人ホームページ。」、第11回のブログエントリーの論題は、「『3・11』から間もなく1年を迎えるにあたって思うこと(己の無力さと向き合う思い)。」です。

 

 実質的には、ブログエントリーの本論の10回目になります。 そして、復興ブログエントリーの5回目になります。

 今回の位置付けは、「感じること、伝えたいことを読み物的に書き綴るエントリー」ですので、コメント欄はないことを、御理解頂けると、とても有難く思います。

 また、私のHPにおけるブログは、過激な内容がどうしても多くなることかと思いますが、今回は、とりわけ過激になってしまうかな、と正直感じております。読者の中には、私の考えに共感できない、と考える人間も少なからずいるかなと思いますが、こういう考えもあるんだ、と解釈して御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 

 では、今回のエントリーにおける考察を始めます。

 

 

 (図解1)自分(愛球人)が、最近読んだ、あるスポーツ雑誌を通して、「心に響く言葉」。

 

 (1)「自分の言動に自覚と責任を持ちなさい。」

 (根岸夢。東京成徳大附属→早大。PG。PFクラスのサイズながら視野の広さとシュートレンジを兼備。)

 

 (2)「環境に感謝する心を常に持て。」

 (野原利江。岐阜女子→立命館大。SF。主将としてチームを鼓舞。指導者志望とのこと。)

 

 (3)「誰にでもできることを誰にでもできる選手になれ。」

 (池谷悠希。富士学苑[山梨]→三菱電機。PF。リバウンド、3Pを兼備するオールラウンダー。)

 

 (4)「夢を持ち続ける限り、努力し続ける限り、夢は遠くない。」

 (大沼美琴。山形商→JX。SF。世代屈指の点取り屋。今春のウィンターカップ準優勝の原動力。)

 

 (『月刊バスケットボール』2012年4月号、100頁~101頁。)

 [いずれも、2011年年末の女子バスケのウィンターカップに出場した現高3になる。]

 

 

 今回、冒頭において、バスケットボールの全国大会に出た、女子高生の言葉を取り上げました。

 これは、何か一つのことに打ち込む人間の言葉には、それ相応の説得力があると考えること、そして、純粋に心にじーんと響く言葉だから、ということがあります。

 

 ここに挙げたのは、女子バスケに打ち込む高校生。その上には、WJBLがあります。

 野球でいうNPB、サッカーでいうJリーグ(なでしこリーグ)のような感じですね。

 尤も、日本の女子バスケ(WJBL)は、良くも悪くも、JXの1強になりつつありますし、代表レベルでいえば、体格差の問題がどうしてもあるとはいえ、どうしても現状では特定個人への依存度(特に、大神、渡嘉敷。高田真でさえ代表の試合ではまだ頭打ちの現状)が強いことが否めず、五輪出場さえアップアップの現状ですが…。

 

 ですから、最初に、女子バスケに打ち込む高校生の言葉を取り上げた理由の一つには、やはり、特に中高の部活レベルで最も盛んなスポーツとしてバスケットボールがある、だからこそなおさら、現在の若い世代には、日本のバスケのレベルをより向上させる大きな原動力になって欲しい、という願いが籠められているのです。

 

 

 いきなり話題を脱線させた感じがありますが、ここで、上記の4つの言葉を取り上げたのは、純粋に自分の心のじーんと響くから、ということがあります。

 

 例えば、(3)で示した、「誰にでもできることを誰にでもできる選手になれ。」

 換言すれば、「当たり前のことを当たり前にできる人間になれ。」ということでしょう。

 頭では理解できる。ですが、いざ行動に移そうにも、なかなかできない。

 「言うは易し行うは難し」とはこのことか、みたいな。

 

 基礎を一つずつ積み上げていくこと。学ぶことを主として、「人間として大切なこと」の大きな一つの要素として、このことが、とても大切なことであるように考える訳です。

 それができる人間が、ある種「自己実現」を叶え得るのかな、と思いますし、いかにして、ある種の「やり方」「コツ」「方法論」を見出していくのか。

 

 自分は、サッカー大好き人間でもあるのですが、サッカーチームの考察において、事あるごとに、「自分たちのサッカースタイルの構築及び具現化の必要性」を主張しています。

 これは、基礎を積み上げることの重要性、と強く感じてならないから、ということが、大きな要素としてあります。

 

 

 あるいは、(1)で示した、「自分の言動に自覚と責任を持ちなさい。」

 これも、人間として、とても大切なことであると思うんですよね。

 ここで示した根岸も、高3時代、主将でした(高1のときからレギュラーを張っていた)。

 潜在能力は高いのに、大一番でそれを持て余している感じが否めませんでしたが。

 

 だからこそ、なおさら説得力を抱くのかもしれません。

 自分も、中学校、高校時代に、副級長、学級委員を、1回目の大学時代に、ゼミ長を経験しました。

 いわば、他者を引っ張る立場と支える立場を、両方経験してきましたが、頭でイメージしたことがなかなかできずにもがき苦しんできた。

 だからこそ、強く感じるのです。「自分の言動に自覚と責任を持てる人間」は、とても素敵な人間である、ということを。これは、果たして、どういうことでしょうか。

 

 ここで言及したいこととして、下記のことがあります。

 

 

 (図解2)「パーソナリティー」とは。

 (『ワールドサッカーダイジェスト(WSD)』2012年3月15日号、45頁。)

 

 「『パーソナリティー』とは、『責任から逃げない強靭な精神力』のことである。」

 

 

 自分は、普段は「自己主張が強い」人間であるはずなのに、肝心なところで、「自己主張ができない」、この思いに、ずっと苦しみ続けてきました。

 より一層深く述べれば、「自分らしさ」を肝心なところで表現できない、と抱き続けてきた訳です。

 

 ですから、WSDの最新号を閲読して、「自分に『自分らしさ』が乏しい理由」が、手を取るように伝わってきた感じなんですよね。

 「責任(逆境、使命)から逃げない強靭な精神力」。

 確かに、自分には、これが泣きたいくらいに乏しいな、と。

 

 この半年、復興支援活動に参加させて頂く過程で、素敵な仲間に何人も出会えております。

 「違いを認め合える」。「本音をぶつけ合える」。

 ずっと求め続けてきたこのことを、やっと認識できるようになったのは、仲間との出会いによるところが大きい、と強く感じる訳です。

 

 いま、仲間に出会えて成長できてきているかな、と思えるのは、恐らく、現在交流させて頂いている仲間は、「自分」を持っている、と思う訳ですね。

 「芯の強さ」「責任感」「思いやり」。

 恐らく、そういったことを内包しての意味での、「パーソナリティー」の持ち主である、と思う訳です。

 

 

 いま一度、先日(2月25日。復興エントリー第4回)のブログエントリーにて言及した一節を、再掲してみましょう。

 

 

 (図解3)『ワールドサッカーダイジェスト』2011年3月3日号、84頁~85頁。フランソワ・ヴェルドネ「世界を斬る!」[フランス]

 

 「彼はいささかナイーブすぎるのだ。逆境を跳ね返すだけの精神的な逞しさを、彼は持ち合わせていないのである。

 (中略)

 なによりも自分自身のために、彼は変わるべきだ。その内向的すぎる性格が、成功を阻んでいるのは間違いないのだから。

 才能に疑いの余地はない。このまま埋もれさせてしまうのは、あまりにも惜しい才能である。天から授かった特別な才能を、グルクフは開花させる義務を負っているのだ。」

 

 

 この文章を改めて読み返すと、自分が、復興支援活動に参加させて頂くのは、勿論、「自己実現」のため、純粋に助けたい一心であるため(自己実現と述べたが、何らかの形で社会貢献の道に携わりたいと強く抱いているから。教職にせよ、NPO・NGOにせよ、警察官にせよ、いずれにもいえることとして)、であると思うのですが、恐らく、「自分の『パーソナリティー』を身に付けるため」であるように思う訳です。

 自分はこれまで、「パーソナリティー」が、全くないわけではなくとも、弱かったことが否めない。だから、これまで回り道を余儀なくされてきたように思う。

 恐らく、「パーソナリティー」を身につけない限り、「自己実現」には手が届かない。

 純粋な思いは勿論ですが、自分を高めるために、復興支援への思いを、日を追うごとに強めているのかもしれません。

 

 

 いずれにせよ、息長い復興支援(そして、社会人になっても。というか、自分としては、何らかの形で、できるだけダイレクトに、復興支援に携わることができれば、と強く思っております)に携わりたい、と強く心に誓っている。

 この思いを心に秘めて、3月10日夜、大阪から福島へと出発します。

 「0泊3日」の超強行日程ですが、「JASP in FUKUSHIMA」に参加させて頂く次第です。

 

 いま一度、改めて、JASPのリンクを、貼らせて頂きたく思います。

 

 「JASP」の公式HP。

 http://watalucky.com/jasp/

 

 

 「3・11」から1年、ということは、福島から帰阪してから、というときも、ブログエントリーを執筆できれば、と考えております。

 いずれにせよ、「自分なりの復興支援」をより深める契機にする、それが、「3・11」から1年、2回目の現地参加としての、福島での学びにしたいものです。

 

 

 長文、駄文、とても申し訳ございません。

 未熟な自分で申し訳ないですが、今後とも何卒よろしく御願い申し上げます。