「2012年春、復興支援と向き合う過程で、現時点で率直に感じること。」

 こんにちは。愛球人と申します。

 

 「愛球人ホームページ。」、第14回のブログエントリーの論題は、「2012年春、復興支援と向き合う過程で、現時点で率直に感じること。」です。

 

 実質的には、ブログエントリーの本論の13回目になります。 そして、復興、社会貢献ブログエントリーの7回目になります。

 今回の位置付けは、「感じること、伝えたいことを読み物的に書き綴るエントリー」ですので、コメント欄はないことを、御理解頂けると、とても有難く思います。

 また、私のHPにおけるブログは、過激な内容がどうしても多くなることかと思いますが、今回は、とりわけ過激になってしまうかな、と正直感じております。読者の中には、私の考えに共感できない、と考える人間も少なからずいるかなと思いますが、こういう考えもあるんだ、と解釈して御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 

 現在の仕様では、ブログの閲読が見づらいと思う読者も、いらっしゃるかもしれません。

 ですので、HPの「トップページ」の下部に、「サイトマップ」がございますので、そこをクリックしますと、「サイトマップ」の半ば部分から下のところに、「ブログ」、つまり、「ブログエントリー一覧」がございます。

 で、それぞれのエントリーの論題の部分をクリックしますと、それぞれのブログエントリーが閲読しやすい感じになるかな、と思います。

 

 とりわけ、今回のブログエントリーは、「感じることをありのままに綴る」、いわば、ある種情緒的な感じの文章になるかもしれません。過激、あるいは感傷的な表現が少なからずあることを、何卒御理解頂けると、とても有難く思います。

 

 では、今回のエントリーにおける考察を始めます。

 

 

 「『笑顔』『思いやり』『向上心』に満ち溢れる社会を生み出す人間に、自分は絶対になりたい。」

 

 この思いが、自分が、微力ながらでも復興支援活動に参加する過程で、いろいろと熟考しながら、現時点で強く抱く思いです。

 具体的な方法論、アプローチは、現在模索中ですが、自分としては、「笑顔」「思いやり」「向上心」こそ、心の底から追い求めていることではないのか、と思うようになりまして。

 現時点では、教員、NPO・NGO、あるいは、警察官(事務職員を含む)のいずれかを視野に、できれば今年の秋口くらいには方向性を見定めたい、と思っていますが。

 

 「笑顔」は、笑顔ほど素敵なことはない、笑顔を大切にできれば、人間も社会もいくらでも成長できると思うし、本当の「幸せ」とは、「笑顔」なくしては考えられない、と思うからです。

 「思いやり」は、優しい心を大切にできれば、辛い思いをしている人間がいつか前を向くことができるのではないか、つまり、涙を笑顔に変える力が、優しい心にはある、と思うからです。

 「向上心」は、人間は学び成長し続ける存在であると思うので、絶えず学び続ける姿勢を大切にできれば、そして、もっと成長したい、という思いを持ち続けられれば、人間はそれだけ成長できるから、そしてそれが社会に活力をもたらす原動力になる、と思うからです。

 

 だから、自分は、「笑顔」「思いやり」「向上心」、この実現のために、自分の持てる力を捧げたい、と強く考える。

 とりわけ、「笑顔のために生きたい」と強く考える訳です。いやむしろ、「笑顔のために生きたい」という思いが、激しい心の叫びとして湧き上がってならない訳です。

 

 

 尤も、自分としては、昨年9月から本格的に復興支援活動に参加するようになってからの、この半年間、いままでにない経験や出会いの連続でした。

 特に石巻、南三陸での2週間は、「1日が1か月に感じる」くらいの充実ぶりでしたが(尤も、石巻での現地活動自体は不完全燃焼感が拭えませんが…)、いずれにせよ、その後も含めて、強い濃密感を、ひしひしと実感する訳です。

 

 ですが、自分としては、今年の「3・11」にて、「JASP in FUKUSHIMA」に参加させて頂いて、その後大阪に帰って、自分なりに、復興支援活動への参加を通して学んだことを、整理し直してみようと考えていたのですが、3月末には「点と点を線にする」ことを目標にしていたのに、遅々として進まず、ほとんどできていません。

 ですから、恥ずかしながら、まだまだ仮説的な感じから抜け出せずにいる感じです。

 

 

 現地(自分の場合、主として福島)、関東、関西、そして地方(徳島、広島、宮崎等)、それぞれ立場や考え方は異なるけど、復興支援、そして社会貢献に強い情熱を抱く仲間にたくさん出会えて、有形無形の刺激を得て、どれほど感謝してもしきれない思いである訳です。

 自分の「人間としての引き出し」の乏しさ、とりわけ、考えの一面性とか、利他的な精神とはどういうことかとか、仲間との出会いで実感し、そして学ばせて頂いている感じである訳です。

 

 だからこそ、課題も少なからず挙がっている感じでもあります。

 自分にはない考えや持ち味を持っている素敵な仲間と、もっといろいろなことを語り合い交流したいと強く思う。

 あるいは、本来軸に置くべき学業。1回目の大学時代に比して考えると、現在の自分は、科目やテキストを「こなしている」感じが少なからずあるのではないか。深く突きつめたいという自分の本来の志向が、どれほどできているのだろうか、と考えさせられるのです。

 

 そして、仲間との出会いを通して、強く実感すること。

 「違いを認め合う」。「本音で向き合う(ぶつけ合う)」。

 このことを、自分は本当は強く希求し続けてきたんだ、と気付かされるのです。

 

 そして、「違いを認め合う」「本音で向き合う」、このことを、肝心の自分自身が、今までそれから無意識的に逃げてきたのではないか。

 そしてまた、この素敵な出会いを、もっと深めていきたい。だからこそ、逃げずに真正面から仲間と向き合って生きたい、と強く欲する訳です。

 そのためには、結局のところ、「学び成長し続ける姿勢」、つまり「自己研鑽」こそが重要になるのかな、と強く感じる訳です。

 

 

 で、自分自身が、現時点で強く感じていること。

 何を以て、「復興」といえるのであろうか。

 

 勿論、「経済的復興(都市の復興)」「精神的復興(心の復興)」の重要性は言わずもがなです。

 とりわけ、自分自身、「精神的復興」は、自分自身、息長く取り組みたいテーマです。

 

 ですが、それ以上に、「本当の復興」というのは、「社会的復興」ではないかと、自分なりに復興支援と向き合う過程で、特にここ最近感じるようになっているのです。

 この場合、「3・11」以前よりも、より一層「希望」に満ちる社会、というイメージでしょうか。「笑顔に満ち溢れる社会」の実現、それが、自分が現時点で考える「社会的復興」であるように考える訳です。

 尤も、まだ仮説的な考え、感覚に過ぎませんけれども、自分の中では、この思いが、強く湧き上がってくる感じなんですよね。

 

 ただ、マイケル・サンデルさんが「ポストモダンの開幕」、半藤一利さんが「第2の敗戦」と形容した、「3・11」の意味、これを自分なりに解釈し、そして深く考え向き合うことが、自分としては求められているように、自分は感じる訳です。

 

 

 自分自身、将来的には、東北で骨を埋めたい、という思いが、日々強くなっています。

 どのような方向に進むか等にもよるかなと思いますが、できることならば、震災という逆境を乗り越えて、あの逆境以前よりも素敵な社会を生み出す、その一助に、自分は絶対になりたい、と強く考える次第です。

 とりわけ、「子どもの笑顔」のために自分は生きたい。このことを、強く抱く次第です。

 そして、息長い躊躇気的な復興支援、そして社会貢献を、改めて強く心に誓う思いです。

 

 

 今後も、折に触れて、復興、社会貢献ブログエントリーを、自分なりに考察したい、と強く考えております。

 

 

 長文、駄文、とても申し訳ございません。

 未熟な自分で申し訳ないですが、今後とも何卒よろしく御願い申し上げます。