「『いじめ』について現時点で自分なりに感じること(「排除の論理」との連関を主体とする一考察)。」

 こんにちは。愛球人と申します。

 

 「愛球人ホームページ。」、第23回のブログエントリーの論題は、「『いじめ』について現時点で自分なりに感じること(「排除の論理」との連関を主体とする一考察)。」です。

 

 実質的には、ブログエントリーの本論の22回目になります。そして、子どもブログエントリーの6回目になります。

 

 今回の位置付けは、「感じること、伝えたいことを読み物的に書き綴るエントリー」ですので、コメント欄はないことを、御理解頂けると、とても有難く思います。

 また、私のHPにおけるブログは、過激な内容がどうしても多くなることかと思いますが、今回は、とりわけ過激になってしまうかな、と正直感じております。読者の中には、私の考えに共感できない、と考える人間も少なからずいるかなと思いますが、こういう考えもあるんだ、と解釈して御拝読して頂けると、とても有難く思います。

 とりわけ、今回のブログエントリーは、「感じることをありのままに綴る」、いわば、ある種情緒的な感じの文章になるかもしれません。過激、あるいは感傷的な表現が少なからずあることを、何卒御理解頂けると、とても有難く思います。

 

 で、現在の仕様では、ブログの閲読が見づらいと思う読者も、いらっしゃるかもしれません。

 ですので、HPの「トップページ」の下部に、「サイトマップ」がございますので、そこをクリックしますと、「サイトマップ」の半ば部分から下のところに、「ブログ」、つまり、「ブログエントリー一覧」がございます。

 で、それぞれのエントリーの論題の部分をクリックしますと、それぞれのブログエントリーが閲読しやすい感じになるかな、と思います。

 

 では、今回のエントリーにおける考察を始めます。

 

 

 自分自身、実は、子ども時代、小中高を通して、少なからず「いじめ」に苦しみ続けてきました。

 「いじめ」に苦しんだことは、1度や2度ではありません。

 どのような「いじめ」を受けたかは、まあ、いろいろとあります。

 悪口、無視、暴力等、いろいろとありますが、例えば、何人かに全身を蹴られたり腰を踏まれたり、プロレス技を掛けられて気絶させられたり、駅のごみ箱に体操服入れを放り投げられていたり、等々。

 

 最もえげつない「いじめ」の経験の一つが、大学受験のときです。つまり、高校3年生のとき。

 簡潔に述べれば、文字通り、「昨日の友は今日の敵」をやられた、という経験です。

 そう。つい昨日まで仲良く会話していた仲間に、ある日突然、無視や悪口をされるようになり、いわば、「仲間外れ」の状況に陥った訳です。

 当時、自分は高校3年生。この「仲間外れ」の状態は、当時通っていた予備校でやられたことです。

 当時、自分は、私立のある中高一貫校の男子校に通っていました。自分が当時所属していたクラスは、雰囲気そのものも、人間関係も、もはや最悪に等しい状態。「学年一の落ちこぼれクラス」と周囲には揶揄されていたクラスに所属していました(理由は、自分の場合、数学、理科の成績が散々であったから。数学では、何回か「赤点」をやらかしていました)。

 学級の中には、自分の居場所は事実上ほぼなし。活路は、予備校に求めざるを得ない状況。

 ですから、突如として起こった「仲間外れ」は、とても辛いものがありました。

 

 

 結果、大学受験では、自分は、第1志望校(「関関同立」の一翼です)は到底叶わず、薄氷の思いで、第3志望校(「産近甲龍」の一翼です)への現役合格が、やっとでした。

 年明けの元日に、インフルエンザで40度の高熱に陥り、心身のコンディションを崩したのが主たる要因であったような感じですが、いまにして思えば、「心と体のバランス」の管理ができていなかったからであるように思います。

 

 で、失意の大学受験から、1年半後くらいの、大学2回生の夏。

 自分を「仲間外れ」にした人間のうち3人(女性でしたが)と、偶然、駅でばったり再会したのです(しかも、向こうから声を掛けられた)。

 これは不思議な経験でした。相手は、第1志望校を叶えている。自分は、正直、結果という意味では、とても悔いが残っていた。だから、いろいろな感情が交錯する感じでした。

 

 そしたら、その女子グループの1人が、こう述べたのです。

 

 

 「りゅうちゃん(自分の素顔の愛称です)、あのときはごめんね。ずっと申し訳ないと思っていたの。でも、あなたを踏み台にしないと、私が目標を叶えられないのがどうしても怖かったから。

 誰かを排除しないで、みんなが目標を叶えられれば最も素敵だとは思う。でも、合格者には枠があるから、誰かがおちざるを得ない。そうなると、誰かを排除しないと、私が落ちてしまう。それで、(予備校の)クラスで存在感があって、かつガラスのような感じがするあなたをターゲットとせざるを得なかった、っていうこと。

 ずーっと心に重しがあった感じで、いつか会う機会があれば、謝らなきゃ、と思ったけど、今日、偶然にもこうして会えて、正直ほっとした。」

 

 

 ある種の憎しみがないといえば、正直嘘になる。でも、根っこが悪い人間ではなかったとも思う。

 申し訳なかった、という気持ちが伝わってきましたし、自分も、心のしこりをあまり引きずりたくないと思っていましたから、その場で、「赦す」気持ちになれました。

 尤も、だからといって、「いじめ」をされたこと自体の、辛い記憶は、永遠に消えません。

 彼女たちそのものを責めようとは思わない。ただ、その「行為」自体は、許せない思いは、正直強く抱く感じではあるのです。

 

 ですが、このエピソード一つをとっても、強く感じることとして、下記のことがあります。

 

 

 「『いじめ』の背景、要因は、あらゆることが考えられるが、とりわけ、『排除の論理』によるところが大きいのではなかろうか。」

 

 

 この思いを、正直強く抱くのです。

 

 そう。物事には、どうしても限りがある。それ故に、誰かを蹴落とさないと、限られた枠を我がものにできない。だから、目の前にあると思われる、敵なる存在を見出し、それを徹底的に排除しにかからざるを得ない、だから「いじめ」が起こる。

 自分の経験則的なことによるところが、正直大きいのですが、「いじめ」は、「排除の論理」によるところが、正直大きいように、自分は強く考える訳です。

 

 

 自分としては、「いじめのない学校」、「いじめのない社会」が実現して欲しいと強く願う。

 そのための努力も、最大限惜しまないようにする心づもりではある。

 しかし、どのようにすれば、「いじめ根絶」を実現することができるのか。

 恐らく、ずっと問い続けることになるのかもしれません。

 

 

 この1年弱で、「3・11」の復興支援活動に参加する過程で、いろいろな素敵な仲間に出会う機会に恵まれました。

 そこで強く感じることが、下記の2つのことの大切さです。

 

 「違いを認め合う」「本音で向き合う」。

 

 そう。とりわけ、「違いを認め合う」ことの大切さです。

 いわば、下記のようなことが、とても大切なことであるように思うのです。

 

 「あなたはあなただからこそ素晴らしいんだよ。」

 

 というのも、自分自身、この1年弱で、いろいろな仲間と交流させて頂く機会に恵まれております。

 正直、「3・11」がなければ、自分の人間関係という意味での「転機」は、恐らくなかったであろう、と感じるくらいです。

 

 その過程で、強く感じることの一つに、意見の対立があります。

 勿論、意見の対立がないことに越したことはないかもしれません。

 ですが、自分自身、正直強く感じることとして、たとえ考えが異なろうとも、対極になろうとも、自分の考えを無理をして封印することは、決してプラスにはならない。

 むしろ、本音をぶつけ合ってこそ、物事の本質、真理を見出すことができて、価値観や心の引き出しを増やし深めることになるように、自分は思うのです。

 

 

 ですから、「いじめ」ということにおいて、「排除の論理」ということは勿論、「同質化志向」という歪んだ心理も、一つの大きな要因であるように、自分は考える訳です。

 意見の対立を厭うべきではない。対極の考えでも、大いに結構ではないか、と自分は思うのです。

 だから、「あなたはあなただからこそ素晴らしいんだよ。」と、自分は強く考える訳です。

 

 

 だからこそ、自分は、「子どもの内面に親身に寄り添える人間でありたい」。

 この思いを、正直強く抱きます。

 

 

 長文、駄文、とても申し訳ございません。

 未熟な自分でとても申し訳ないですが、今後とも何卒よろしく御願い申し上げます。