「2012年衆院選、一人の若い世代として感じること(その3)。」

 こんにちは。愛球人と申します。

 

 「愛球人ホームページ。」、第32回のブログエントリーの論題は、「2012年衆院選、一人の若い世代として感じること。」です。

 

 実質的には、ブログエントリーの本論の31回目になります。そして、復興、社会貢献ブログエントリーの14回目、日本社会、日本政治ブログエントリーの1回目になります。

 

 では、(その2)の続きから、考察を始めます。

 

 

 (その2)のラストの部分にて、自分は、「一人の若い世代として願うこと」として、下記のことを記しました。

 

 「理想とする社会像をできるだけ具体的に明示すること。」

 「『子どもの未来』を最優先に考える政治、社会を具現化して欲しいこと。」

 「いのちが最大限に尊重され得る形での『震災復興』の具現化(特に、教育環境や医療環境の充実)。」

 

 

 先程、今回の衆院選において、自分たち若い世代の間では、無意識的に、「恐怖」「諦め」の感情が蔓延していなかったか、と述べました。

 

 理由として、一つに、若い世代には、「雇用」の問題がある、雇用が欲しければ、面接がある、面接を突破するには、人事担当者の眼鏡に叶わねばならない、人事担当者の後ろには、財界や官界(あるいは圧力団体)がある、仕事に息長く取り組みたいならば、そういったことを受け入れざるを得ない、だから、財界や官界とパイプが強い自民党に票が流れたのかな、ということ。

 これについては、(その2)にて言及しました。

 

 

 あるいは、第二に。今回は、各党が、いわゆる「ネガティブキャンペーン」合戦に走りました。

 自分たちの信念を熱く語るのではなくて、他者の批判がほとんど。

 勿論、復興のグランドデザインや、どうやって経済をよりよくするのか、子どもの未来をどう考えているのか、ほとんど全く語られず。

 消費増税にせよ、何故増税が必要なのか、あるいはなぜ増税に反対なのか、あまり議論が深まらなかったように映るのです。

 

 批判合戦にはうんざり。もはややってられないよ。だから、投票に行かない(棄権)、あるいは白票。それで、若い世代があまり投票に行かなかったのではないかな、と。

 あるいは、そもそも消費増税も、その使い道が、ほとんど高齢者にばかり回りますから、これも、若い世代にとっては、自分たちはどうせ置き去りにされるんだ、という感覚になってしまうように思うのです。だから、投票することに対して、ある種の遠心力が働いてしまうのかな、と。

 

 

 消費増税自体は、いずれは必要なのかな、とは思うのです。勿論、その消費増税分を、自分たち若い世代に、あるいは医療、教育といった、「いのち」や「未来」のための投資として、ということにおいてですが。あるいは、消費増税を、「教育の公的投資の抜本的大幅増加」に充てるのならば、とても納得できる感じではあるのです。

 ですが、個人的には、「いずれ消費増税は必要とは思いますが、いま増税が必要なの?」と思うんですよね。少なくとも、震災復興にめどが立つまでは、とか、若い世代に増税分の多くを投資することの担保がなされるまでは、出ないと、個人的には、増税にどうしても納得できないんですよ。

 

 

 そして第三に。現在の日本を代表するアイドルグループとして、「AKB48」がありますが、AKBをスターダムに押し上げる大きな要因として、「選抜総選挙」があると思うんですよね。

 個人的には、AKBの選抜総選挙の具体的なやり方には、違和感を抱くところも正直あります。自分的には、NPBやJリーグのオールスターのファン投票のように、ネット(HP)からの投票を認めるべきである、と思うのですけどね(CDを買わないと投票権を得られないような方法には、正直強い違和感を覚えます。若い世代は経済力の不安から、CDを買いにくくなっている訳で、時代の流れを踏まえても、ネット投票を積極的に活用すべきではないか、と思う訳ですが)。

 

 とはいえ、AKBの選抜総選挙は、自分たち若い世代にとっては、「参加している」という実感があるんですよね。ファンは勿論、自分のように、AKBのファンではない人間にとっても、総選挙の開票結果に、なんだかんだで一喜一憂する感じですし。

 NMBからは誰が通った(選抜メンバーである16位以内に何人入った)、SKEからは誰が通った、自分の好きなメンバー、興味のあるメンバーは何位であったか、とか。

 

 

 それに対して、今回の衆院選。自分たち若い世代、あるいは子どものための政策、あるいは理念(フィロソフィー)は、ほとんど語られていない。

 「参加している」という感覚を、ほとんど感じられないんですよね。どうせ自分たちは置き去りなんだ、どうでもいいんでしょ、とか。

 

 そもそも、好景気であったこと自体、「55年体制」が崩壊した1993年以後で考えれば、わずか2年くらいしかないのです(2005年夏~2007年夏くらい)。

 この好景気の期間。理由はある種単純。「団塊世代の大量退職で、否が応でも若い世代を取り込まざるを得ないから」。いわば、「半強制的」な世代循環による、外的要因であった感じなんですよね。

 要するに、自力で好景気に持ち込んだ経験など、少なくともこの20年間では一度もない(あるかもしれないが、実感がない)。これも正直、大きく影響しているのかもしれません。

 

 

 で、話題が変わりますが、今回の衆院選にあたって。

 「非自民政権」は、何故にこんなにも、残酷なまでに散々たる結果に終わったのか。

 

 理由、要因を挙げればきりがないと思います。自壊した、といえば、それまでかもしれません。

 ですが、正直思うのです。メディアは何をやってきたんだ、と。

 

 最も強い違和感を覚えること。どうして、日本の政治記者は、ほとんどの記者が、「棒読み質問」しかできないんだ、と。

 聴いていて、みていて、正直怒りさえ覚えるのです。気持ちを籠めてよ、単調な言い方で質問するなよ、と。ただ、淡々としか質問しない。

 あるいは、この記者、抑揚をちゃんとつけているな、と思ったら、いわゆる「かみかみ」になるとか。まともな質問ができる記者、となると、よく聞くと、記者ではなくてアナウンサーなんですよね(例えば、ANNの富川悠太[報道ステーション]、JNNの蓮見孝之[NEWS23]等)。

 

 どうせあなた(棒読み質問しかできない政治記者)は、「受験学力」だけ高くて、それで新聞記者を叶えられたんでしょ?と。学校歴がすべてなの?と、どうしても思ってしまうんですよ(意欲に満ちていても、埋もれている若い世代は、恐らく少なからず多くいるのではと思うと、なおさら強い違和感を覚えてしまいます…)。

 

 

 あるいは、各局のアナウンサー陣。いわゆる「エース」を確立するのに手間取る曲が、少なからずあったりした。盤石の態勢を整えられていたのは、ANN(大下容子、上山千穂、小川彩佳と、ベテラン、中堅、若手それぞれに絶対的エースが満遍なくいる)、あるいはNHK(「ニュース7」担当が5年目の武田真一。後継候補にも、小郷知子、守本奈実、久保田祐佳と、人材には困らない。個人的には、守本アナに期待していますが)くらいのものでしょう。

 

 例えば、JNN。小林麻耶が独立した後のエースを見定められなかった。

 (その2)にて、JNNの看板番組の一つ、「報道特集」を、少し言及しました。現在は、岡村仁美が担当しています。

 東大卒の才色兼備。妹も、フリーアナ兼タレントです。報道もスポーツもできるオールラウンダーですが、エースになりきれなかった(というか、エースをつかもうという気概を感じられなかった。アナウンス技術を含めて能力は高いだけに、実にもったいない)。

 ようやく、今年になって、出水麻衣が、エースになった感じがありますが(良くも悪くもスポーツ専門ですけど)、エースを再確立できるまで、2年を要したことになる。空白期間を置いてしまうって、これは頂けないでしょう。

 

 

 あるいは、FNN。高島彩が独立してからどうか。

 人材には確かに困っていない。頭数はわんさかいる。でも、絶対的エースがいるか、といわれると…、「?」と思うのです。

 スポーツで本田朋子、報道で大島由香里、その他で加藤綾子、そういう「スリープラトン」といえば、聞こえはいいですが、誰か一人、といわれると、疑問符を抱く感じであるのです(現時点で、加藤綾子が、好きな女性アナランキングで1位とされていますが、個人的には、スポーツまたは報道で高いレベルをこなせるアナウンサーでなければ、エースと認めないので)。

 

 逆にNNNは、絶対的エースである鈴江奈々への負担が、あまりにも大き過ぎます。確かに鈴江アナは、報道もスポーツも高次元でできる貴重なアナですが、局としての視聴率は好調だけど、人材不足では…、とも思うんですよね。

 

 

 要するに、何が言いたいのかといえば、「プロ意識」「ジャーナリスト精神」を持ったメディア人、アナウンサーが、少なくなっているのではないか、と。NHKでさえ、いわゆる「チャラチャラした」アナウンサーが、ゴールデンタイムとかでさえ散見される有様ですから(いわんや民放では、正直数えるほどかと)。

 タレント感覚のアナウンサーが、あまりにも散見される。それに、現場を駆け回るエース級のアナウンサーも、あまり見かけません。真実を追究する、社会をよりよくする精神を大切にしたければ、まずは「現場感覚」こそ大切ではないですか、と。

 

 いわゆる、「媚を売る」。これ、自分が最も大嫌いなことの一つなんですよね。共感できるかどうかは別として、「私はこう思います」という姿勢を、もっと明確にできないものなのか、と。

 特に日本の場合、メディアは、「第4権力」と称されるほどに、社会的影響力があまりにも大きいですし、それだけ社会的地位も高い訳です。もっと、いい意味での「プライド」を持ってほしいと思うんですよね。

 

 (ちなみに開票速報は、今回の衆院選では、NHKを基本に、ANN、NNN等をも回しながら、結局、1時35分までぶっ通しで見ていました。例年は、1時くらいまでですから、我ながら、今回はかなり気持ちを入れて見ていたんだなあ、と実感する感じです。個人的には、NHKとANNの安定感を、強く実感する感じではあるのですが。)

 

 

 そしてもう一つ。文系の研究者には、社会をよりよくするために、「保守」であれ「進歩」であれ、もっと積極的に発言して欲しいと思うんですよね。

 

 自分の場合、かつて政治学を学んでいたこともあって、言論雑誌を結構読みます。

 ですが、(まあ、主として読んでいるのが、『文藝春秋』『中央公論』であることも、影響しているかもしれませんが)積極的に発言している研究者、言論人は、どちらかといえば、「保守」の立場をとる人間が主体な感覚がある訳ですが。

 

 

 思い起こすのが、今年、ノーベル医学生理学賞を受賞した、山中伸弥さんが、ノーベル賞受賞にあたって述べた言葉です。

 

 

 「賞を受賞したことは、勿論嬉しいですし、とても名誉なことですが、私にとっては、この賞は受賞した瞬間、過去のことになりますし、賞は私にとっては過程でしかありません。

 科学者にとって、最大の使命は、自分が研究していること、何か一つのことを深く研究することを通して、よりよい社会を、理想とする社会を実現することにこそあるのです。私の場合でしたら、iPS細胞の実用化を通して、一人でも多くの人間、患者さんの命を救うことになる訳ですね。

 ですから、この賞の受賞を通して、一人でも多くの子ども、若者が、研究者、科学者を志して欲しいと強く思いますし、そのようにできるように、仕組み、あるいは雰囲気を改善して行けるように、我々研究者もより一層研究の質を高めていくことが、あるいは社会に対してより積極的に発信していくことが大切ではないか、と思っています。」

 

 

 実に、とても心にじーんと響く言葉です。

 私自身、生まれ変われたら、研究者になりたいと強く思っていますし、何故ならば、「好きなことを通して社会貢献できる、素敵で崇高な道であるから。」という感じですが、やっぱりノーベル賞受賞者は、その発言に重み、そして強い説得力がある、と感じるんですよね。

 

 ですが、研究者は、理系のみならず、勿論文系も大切な社会的役割を持つ訳で、文系の研究者ができることとすれば、研究を通して、社会に発信をし続けることになってくる、と思う訳です。

 まあ、そのような「発信」「発言」といった「言論」で勝負する、文系の研究者となると(文系といっても、実に多様な学問分野がありますので)、政治学者、経済学者、哲学者(思想家)、教育学者、といったあたりになってくるのかな、と思いますが(勿論、「現場感覚」こそ大切になってくるのかな、とも思う訳ですけど)。

 

 

 で、手元のメモ(手書きの日記)で、かつて、2009年衆院選の直後にて、朝日新聞(2009年9月9日付朝刊)にて、「若手政治学者の目」として、9人の若手政治学者が、非自民政権(民主党政権)の誕生をどう考えているのか、ということの論説があります。

 

 自分が印象に残る見解としては、一つに、三浦まりさん(上智大学准教授)の、「公正の実現こそ成長戦略」ということがあります。具体的には、「『安全と安心』で民主党に説得力。しかし『人間の尊厳』なくして社会の発展はない。」と述べております。

 この見解に、自分自身、強い共感を抱く感じなんですよね。そして、民主党政権は、その「進歩」の理念に裏打ちされた、「公正の実現」「人間の尊厳」をないがしろにしたから、自らが追究すべき理念を見失い、自壊(自爆)していった、自分は、そのように強く抱くのです。

 

 

 で、もう一つ、強く印象に残る見解があります。

 中北浩爾さん(立教大学教授)の、「政治の市場競争化を排せ」。具体的には、「二大政党が参加重視の党運営に改めると共に、穏健な多党制へのシフトを望む。」と述べております。

 

 これにも、全面的に共感する感じですし、自分自身、今回の衆院選を踏まえて、時代の流れに照らしても、政治システムの抜本的変革(政治改革)を、いま一度着手して然るべきではないか、と思う訳です(ただし今回は、いわゆる大統領制、あるいは首相公選制云々まで発展し得る感じになりますから、そうなると、いずれは改憲論議を無視できなくなってくるように思いますが…)。

 

 具体的には、衆議院について、「小選挙区200、比例区200、合計400」にして、小選挙区と比例区を1対1にして(現行の並立制及び重複立候補制は存続させる)、少数政党の意見、あるいは多様性をより一層尊重する、「穏健な多党制(5~7政党程度)」「コンセンサス型政治」へのシフトを志向する、その一方で、参議院は、「完全比例代表制」にして、言論人や地方の首長等の参加をより積極的に進めていく、そのようにすみ分けることができないか、と思う感じなんですよね。あくまでも、現時点で、の考えに過ぎませんけれども。

 

 

 それにしても、一人の若い世代として、強く感じることがあります。

 

 今回の衆院選、投開票日が、12月16日であった訳ですが、この日にあったイベント、FB(フェイスブック)にて、実に「5つ」もの誘いがありました。

 正直、とても興味深いイベントも、複数ありました。ですが、結論は、自分の中では迷うことは全くなかった。

 そう、「オールキャンセル」。つまり、「すべて不参加」。だって、天下分け目の頂上決戦なのですもの。

 

 イベント会場にて、開票速報(どの局でも構わない。まあ、基本的にNHKかなと思いますが)が放送されるならば、検討したかもしれない。しかし、今回の衆院選は、「日本社会のありよう」を決める、大きな岐路といってよい。自分としては、どうしてもこの日だけは譲れなかった感じなんですよね。

 まあ、今回の衆院選の開票速報は、1時35分までしっかり見させて頂いた感じでして(例年ならば1時くらいには就寝する。ちなみに終電で帰宅する場合の就寝時間が1時20分)。それだけ、気持ちが入っていたのかなあ、と。

 

 

 いえ、別に、その日にイベントを入れること自体を、全否定するつもりはありません。

 ですが、解散して、衆院選の投開票日が、12月16日であったことは、11月16日の衆議院解散時に、およそわかりきっていた訳で(東京都知事選挙が12月16日であったことが既に確定していた訳ですから)。国政選挙、ましてや、衆議院選挙の意味合いが、わかっているのかなあ?と。

 それも、何故5つも集中する訳?みたいな。正直、唖然とする思いであったのが、率直な感じです。天を仰ぐ感覚、みたいな。

 

 今回の衆院選。正直、若い世代があまり投票に行かなかったと思われるから、これほどの低投票率になったのでしょう。そして、自民党が完勝を収めることになった。

 はっきり述べましょう。これは、自分たち「若い世代」の「敗北」なのだ、と。

 それも、ただの「敗北」ではなくて、事実上の「不戦敗」なんだろうなあ、と。

 

 何も、安倍晋三新政権を、全否定するつもりなどないんですよ。自分は正直ほとんど全くに近いくらい、考え方的には共感できませんが、「信念」「リーダーシップ」という意味では、卓越する感じが伝わってくる政治指導者になり得るとも思いますから。今回の完勝劇も、「安倍晋三」であったからこそ、とも思いますし。

 

 

 というのも、今回の自民党の衆院選でのキャッチフレーズ。「日本を、取り戻す」。

 これを、「栄光を、取り戻す」に置き換えると、とても納得できるんですよね。

 特に、東証の株価の連日の値上がりぶり。財界、業界団体、経団連の鉄の結束の誇示ぶり。

 極めつけが、我々若い世代が、平然と投開票日当日にイベントを入れまくっている、という現実。

 

 これでは若い世代は投票に行くことへの遠心力が働くだろうなあ、と。

 結果云々というよりは、恐らく若い世代が、事実上の「不戦敗」になったことが、悔しい、悲しいんですよね、自分は。

 まあ、「どうなるか、みてみよう」という感覚でもあったりする感じでもあるのですが。

 

 

 とはいえ、希望はある、とも思う訳です。その根拠は2つ。

 1つは、朝日新聞朝刊における、「20代 この声届け」における、12人の若い世代の声。

 2つは、「teens opinion」。10代の率直な声が伝わってくる。

 

 この2つに共通するのは、「若い世代」の間でも、「自分の考え、主張」を持っている人間が、少なからず存在する、ということです。

 そう、一人でも多くの「若い世代」が、「自分の主張」を持ち、「理想とする社会像」を描き、そして、社会をよりよくする、社会貢献の一助になる姿勢を持ち続けることができれば、きっと社会をよりよくすることが、絶対にできるはずである、自分はそのように、強く抱くのです。

 

 

 だからこそ、自分は強く抱くのです。

 「よりよい社会を、絶対に諦めない。諦めたら、そこで試合終了であるのだから。でも、『努力に勝る天才なし』という言葉があるように、想いを持ち続けることができれば、いつかきっと、最高に素敵な花が咲くときが、きっと来るはず。そのように、自分は強く信じている。」

 

 

 そして、一人の若い世代として、最後に、この言葉で結びたいと思います。

 

 「自分たち若い世代が、『想い』『考え』『叫び』を精一杯全力で粘り強く発進し続けること。そして、だからこそ、『よりよい社会の実現を、絶対に諦めてはならないのだ。』と伝えたいです。」

 

 この思いを、正直強く抱きます。

 

 

 長文、駄文、とても申し訳ございません。

 未熟な自分で申し訳ないですが、今後とも何卒よろしく御願い申し上げます。