「『35歳の高校生』前半部分を見て、自分なりに感じること。」

 こんにちは。愛球人と申します。

 

 「愛球人ホームページ。」、第39回のブログエントリーの論題は、「『35歳の高校生』前半部分を見て、自分なりに感じること。」です。

 

 実質的には、ブログエントリーの本論の38回目になります。そして、子ども、教育ブログエントリーの8回目、芸術、メディアブログエントリーの3回目になります。

 

 では、今回のエントリーにおける考察を始めます。

 

 

 ここ2か月近く、HP更新ができていませんでした。

 理由は、自分自身、進路の問題(いよいよ本番のシーズン)に直面しており、それに向けて何かと忙しくなってしまっていまして、HP、あるいは、SNS(ツイッター、フェイスブック)に充てる時間がなかなかできなくなっている、ということが、正直あります。

 

 書きたい話題は、正直いくつもあるのです。今回、2か月近くぶりの更新をさせて頂くにあたって、どのような話題、テーマの文章を書こうか、正直考えました。

 復興について(これは進路にも密接に関係する感じでもあるのですが)、現時点で思うこととか、趣味であるスポーツ観戦にまつわること(例えば海外サッカーの今夏の移籍市場考察、あるいは野球のリリーフの酷使問題、等々)、等々、といった感じですかね。

 

 ですが、今回、取り上げようと思うテーマは、ある学園ドラマ(現在放送されている)を見ていて、そのドラマから、いま子ども、あるいは高校生を巡る諸問題について、自分なりにどう感じているのか、そういったことを考えてみようかな、と思いまして。それで、今回のブログエントリー、とさせて頂く感じです。

 

 

 ある学園ドラマ。今回のブログエントリーの論題に、既に記させて頂いている訳ですが、『35歳の高校生』というドラマです(NNN系列[日本テレビ系列]、土曜日21時)。

 

 もともと、自分は、映画やドラマ(特に連続ドラマ)は、実はあまり見ません。

 映画館に行くのは、年に1~2回あるかどうか。同じ資金で、本か映画か、であれば、基本的にほぼ毎回「本」という感じです。その方が、自分にとっては視野が広がり深まるから、というスタンスからです。

 あるいはドラマの場合、同じ時間でならば、スポーツやドキュメンタリーの方が、楽しめたり、ささやかな学びができる感じがあるからです。ドラマの場合、次の回のストーリーが気になって、それが時間を束縛させることになったり、それに気を取られて、勉強に集中できなかったり、というのが嫌だから、という感じからなんですよね。

 

 とはいえ、ドラマも娯楽の一つでありますので、見ることは見ます。ただ、連続ドラマの場合、1クールにつき、原則1つ(全く見ないクールもある。あるいは例外的に2つくらい見る場合もあるが、復興支援活動に参加させて頂くようになってからはそれさえも難しくなっている感じですが)、という感じで見る感じなんですよね。

 それが、今回は、『35歳の高校生』という感じなんですよね。

 

 

 基本的に、自分の場合、ドラマを見る一つの指標、基準として、『感じることがありそうか』というのがあります。少し頭を遣うかな、という感じ、いわば、ささやかな刺激を求めて、という感じなんですよね。

 

 勿論、自分だって、好きな役者(女優、タレントとか)は、います。

 1人に絞り込むことは、正直難しいのですが、3人挙げよといわれれば、現時点でならば、下記の3人です。

 

 「志田未来、前田亜季、南沢奈央」。

 

 これで即答です。理由を挙げると、話が長くなり、脱線するので、今回は割愛させて頂きますが。

 ただ、自分の場合、たとえ好きな女優さんが出演していようとも、見ないときは全く見ません。

 (尤も、ドラマを見る場合、自分のスケジュールとの兼ね合いの問題とかもあるので、そもそも時間的にみる可能性がノーチャンスのドラマもあったりする訳ですが。)

 

 そう、「役者(出演者)」よりも、およその「ストーリー(内容)」の方を、自分は重視する感じなんですよね。

 

 

 で、今回。このクールで、『35歳の高校生』を見よう、と思った理由。

 最大の理由は、やはりもともと子どもが大好きなので、その影響で学園ドラマを結構見るから、その延長線上、という感じでしょうか。

 それと、米倉涼子、渡哲也が学園ドラマ、というから、いわゆる「チャラチャラした」感じにはならないだろう、というのも、正直あります(学園ドラマだから無条件に見る訳ではないので。ただ、今回の場合、土曜日ということもあり、何回かは後で録画で見ることも、実はあったりするので、最後まで持つのかという不安もなくはないのですが…。汗)。

 

 

 高校生を取り上げる、ということですが、実は、いま、自分が見るテレビ番組には、高校生が登場するのが、結構あります。

 

 

 (図解1)現在自分が結構見るテレビ番組の中で、高校生が出る頻度が多い番組(ただしニュース、スポーツ番組を除く)。

 

 (1)「Rの法則」(NHKEテレ。2011年スタート、現在シーズン3。毎回ではないが、生放送の回を中心に、週に1~3回のスパンで見る。主として中高生がターゲットなのだが、現代の子どもがどのような社会に生きているのかとか、どのようなことに興味があり、感じているのかなどのリアルを知ることができて、自分自身も学ぶことが多い。)

 (2)「テストの花道」(NHKEテレ。2010年スタート、現在シーズン4。基本的にほぼ毎回見ている。学び方について学ぶ番組であり、自分自身も学ぶことが多い。ただ、今春に主力メンバーの何人かが卒業して大きくメンバーが刷新された感じがあり、過渡期の印象もあるが。)

 (3)「東北発未来塾」(NHKEテレ。2012年スタート、現在シーズン2。復興について若い世代がフィールドワークで学ぶ番組という感じであり、「国内版白熱教室」のイメージ。勿論毎回見ている、というか、自分の中では絶対的聖域的存在。基本的に、塾生は、大学生や大学院生が多いが、時折高校生が登場することもある。)

 (4)「フレフレ」(NHKEテレ。2012年スタート、現在シーズン2。志や目標に向かって生きる10代を応援する番組。必ずしも毎回ではないが、3階に2回くらいは見ている感じ。かつての「中学生日記」のテイストを踏まえた感じ。)

 

 

 まあ、4つとも、NHKEテレになってしまった感じですが、これに加えて、いまでは、高校生が主体になっている、あるいは参加している学生団体が、いくつもあります。そして実際、自分が交流させて頂いている高校生は、およそがこのうちの何らかの団体に参加している(あるいはそのOB・OG)、という感じです。

 挙げ出すときりがないので、いくつかを列挙する感じになりますが、例えば、下記のような感じですかね。

 

 

 (図解2)自分が交流させて頂いている、あるいは、存じ上げている、高校生が主体になっている学生団体(ただし、名前だけの列挙になります)。

 

 「Teen for 3.11」「ビヨンドトゥモロー」「僕らの一歩が日本を変える」「高校生環境連盟」

 「Hot Japan Project」「Team Neighbor」「Step by Step」「底上げyouth」

 「高校生が、いま出来ること」「bud」「arco-iris」「高校生一万人署名運動」等々。

 

 

 いま挙げただけでも、実に12になります。実際は勿論、もっとあります。

 それこそ現代の高校生の「熱量」「エネルギー」「バイタリティー」は、ある種底知れないものがあるような感覚なんですよね。

 

 少なくとも、自分にはない、素敵で強烈な個性の持ち主ばかりである、それが、自分が抱く率直な感じなのです。

 いま見ている番組の一つ、「Rの法則」でも、特に中心的存在として活躍するメンバーは、実い強烈な個性だよなあ、「いるだけで絵になる」感じだなあ、と感じますが、それに相通ずる感じです。

 

 

 それで、今回の、「35歳の高校生」。全部で何話構成かは存じませんが(恐らく10話くらい?)、ここまでで、第5話を消化しました。

 まあ、ドラマを見ていて、いろいろと感じることがあるので、それで、自分なりに、ブログエントリーをさせて頂こうかな、という感じですかね。

 

 

 率直に述べます。この、「35歳の高校生」、かつて自分が強い衝撃を覚えた、「女王の教室」「2005年、NNN)の再来だなあ、と。

 勿論、単純に、このアゲイン版とは思いません。小6と高3という相違点がありますし、子どもを取り巻く社会状況、時代状況も異なりますから。

 

 ですが、「強烈なメッセージ性」「ある種のセンセーショナルさ」という意味では、共通している感じがあります(書きおろしであることが成せる業かもという感じですかね)。

 ただの学園ドラマではない。どういうラストへと向かっていくのか、正直わかりませんし、「女王の教室」のような、「いい加減、目覚めなさい」のような決め台詞がある訳でもありません。

 (ただ、「女王の教室」には、いくつもの珠玉の言葉が詰まっていた感じ。全11話構成であったが、とりわけラスト3回は、自分的には「伝説」と言ってよいのでは、と思う感じです。)

 

 とはいえ、なんだか、無意識的にひきつけられていく、そして、考えさせられる、いわば「濃密な」感じなんですよね。「家政婦のミタ」とは、また違った感じで。

 

 

 本題は後の方へと持っていきます。今回の生徒役の高校生(実年齢はもう少し上である人間も少なからずいるようですが…)、特に女子の面々。自分は、正直ここに、着目してみたい感じなんですよね。

 

 

 (図解3)「35歳の高校生」、公式HP、ウィキペディア。

 (HP)http://www.ntv.co.jp/35jk/

 (ウィキペディア)http://ja.wikipedia.org/wiki/35%E6%AD%B3%E3%81%AE%E9%AB%98%E6%A0%A1%E7%94%9F

 (NAVERまとめ)http://matome.naver.jp/odai/2136127738302266901

 

 

 (図解4)「35歳の高校生」、3年A組生徒役、女子の主力メンバー。

 (名前は本名[あるいは芸名]表記。「GTO」「黒の女教師」は、それぞれ2012年放送の学園ドラマ。)

 

 [名前]   [階層] [GTO] [黒の女教師] [セブンティーン] [その他]

 広瀬アリス   3軍           ○        ○   高校サッカー(10)

 藤原令子    2軍           ○

 森川葵     2軍                    ○

 水野絵梨奈   3軍                        ダンサーとしても活動

 宮崎香蓮    1軍    ○               国民的美少女入賞、早大在学中

 新川優愛    1軍    ○               ○

 北山詩織    1軍                    ○

 小島藤子    1軍                         元ラブベリー

 

 

 上記のように、今回の生徒役の女子、過去に共演歴のある組み合わせが、少なからずあります。

 「セブンティーン」専属モデルが、主力8人中、実に4人。いずれにせよ、この8人が、役と共に、物語と共に成長して欲しい(実際、思わず、頑張れ、夢に向かえ、と心の中で何度も願う感じですし)、と強く抱くことは勿論、この8人が、このドラマで出会った「絆」を、いつまでも深め続けていって欲しいなあ(これは、「Rの法則」「テストの花道」にも相通ずることですが)、そう強く願うのです。

 

 ですが、実は、上記の8人のうち、何人かは、実は、名前を知らなかった、あるいは、名前は聞いたことがあるかなだけど、顔と一致しなかった、という感じでした。

 実際、「GTO」「黒の女教師」は、ほとんど見ていませんでしたし、「セブンティーン」をはじめとするティーンズ雑誌も、読んだことが全くといってよいほどありません(読みたいですが、機会があれば、みたいな)。

 

 例えば、藤原令子。ドラマスタート時から、何かと存在感が際立つなあ、でも、(恐らく別人だろうとわかっていても)NMBの山本彩とよく似ているなあ、と思っていました。別人とはっきりとわかったのは、第1話のキャスティングの表示が出たときです。

 ひたむきな感じなんだろうなあ、とは伝わってくるのですが、存在自体をこれまで認識できていなかったこと自体、とても申し訳ない感じで。でも、この強烈な存在感は、今後一気に「きそう」な感じだなあ、と。

 

 あるいは、森川葵。彼女については、名前すら知りませんでした(申し訳ないです)。ですが、ツイッターや掲示板とかを閲読すると、結構名前が出てくる。

 なかなか清楚だなあ、優しそうな感じで、潤滑油的存在になれそう(現実の学級の世界において考えたときに)、と好感な感じですが、「葵たん」「葵ちゃん」という書き込みがしばしば出てくるのは、「セブンティーン」の魔力なのかな、と思うと、ある種納得な感じです。

 

 まあ、このように、一つのドラマを通して、ある種の「社会勉強」をさせて頂いているような感じなんですよね。

 

 

 それはそうと、今回の「35歳の高校生」、何故、こうして今回、ブログエントリーに踏み切らせて頂いたのかと申しますと、はっきり述べれば、下記のことに、強く考えさせられるからです。

 

 「スクールカースト」。

 

 恐らく、今年の流行語の一つと言ってよいでしょう。実際、書店に行くと、『スクールカースト』(鈴木翔さん。若き教育社会学者)という本が、ベストセラースペースの一つに、陳列されてありますから。

 

 

 「1軍」「2軍」「3軍」。

 こういう言い方は、自分の中高生時代は、まだなかったですが、感覚的に、そのようなものは、自分のときには既にありました。そして、年を追うごとにより一層顕著に、エスカレートの傾向の度合いを強めている、という感じなのでしょう。

 

 以前にも言及したことがあったかもしれませんが、自分は、小中高を通して、「いじめ」に少なからず苦しみ続けてきました。「2つの震災」(阪神淡路、東日本)と共に、「いじめ」も、自分自身を規定すること、と言っても過言ではないと思います。

 ずっと、とまで言わなくとも、それに近いくらい、「いじめられっ子」であることを余儀なくされてきた自分としては、「1軍」でいられたのは、恐らくどれほどあったかなあ、という感じなんですよね。

 

 

 思い起こすのが、高校時代です。

 自分は、中高一貫校であったのですが(ちなみに男子校です)、高校2年生になったときの自分の所属クラスは、自他共に認める、「学年一の落ちこぼれクラス」でした。

 何故自分がそのクラスになったのかといえば、特に数学で赤点を複数回やらかすほど散々で(未だに、ベクトルとか図形の証明とかは、日本語というよりは、外国語的な感覚を抱くくらい全く駄目です)、まあ、学業的には勿論、その中には、人間性的に、いわゆる「問題児」が何人も混じっている、それが容易に想像できる面々が揃ってしまった感じでした。

 

 で、案の定、「学級崩壊」状態になるのに時間はかからずでして、自分はこの高2のとき、これもやはり、「いじめ」の標的になりました。実に陰湿でした(あまりに悲しくなるので、深入りはしませんが…)。

 勿論、その学級内では、「2軍」あるいは「3軍」の立場。というか、初めから立場は期待できなかった感じなのです。まあ、懇意にさせて頂いている先生が何人かいましたから、それでどうにかなってはいましたが、学校での居場所は、どうにかあったかな、という程度でした(だからこそ、特に絶対的得意教科である日本史の存在が大きかった訳ですが)。

 

 

 そこで、自分が「居場所」を求めたのが、予備校です。自分が通うようになった予備校は、いわゆる地域密着、生徒と先生の距離の近さ(基本的に、1クラス40~70人程度。そして完全座席指定制)です。まあ、自分の所属校舎は、これに加えて、所属生徒のおよそ70%以上が、私国立の中高一貫校の生徒であった感じですが。

 既に「私立文系」で確定していましたから、居場所を求めるのは、英語、国語の時間になる。感想、質問カードで、気持ちや思い、疑問をストレートにぶつけるなり、ちょっとしたことでもわからないことがあれば容赦なく質問攻め。

 そして、どうも自分は、「甘えん坊」的な気質があるのか、何故かこの予備校でも、事務職員さんに気に入って頂けたようで、それも、「居場所確保」に一役買った感じです。

 

 いわば、予備校では、クラス内部での、あるいは校舎内部での居場所(自習室でもそれなりの座席をゲットできる機会が結構ありましたし)を確立できましたし、ですから、それなりの居心地は確保できた感じであるのです。

 尤も、高3の夏以後、手のひらを返したように、志望校別クラスの内部で、いじめの標的になってしまい(実に巧妙で、精神的にじわじわと締め付けられる感じ。言葉によるものが主であったが、結果としてこれが自分のメンタルをつぶすことになっていった感じです)、悔いの残る結果へとなって行く訳ですが(汗)。

 

 

 尤も、こういう経験もあります。それが、小5、小6のときです。

 小5のとき。厳密には、小4の3学期から転校、となったのですが、転校早々に、「阪神淡路大震災」が発生しまして、即刻疎開を余儀なくされた。疎開生活から帰ったら、新学年の始業式。ですから、小5のときは、事実上、「転校生扱い」からのスタートでした。

 

 転校と言っても、同じ市内の隣の学校からの転校であったのですが、正直最初は不安でした。先生方の支えが、自分にとって、とても有難い感じでしたが。

 ただ、学級が一つになっていく過程で、いまにして思えば、小5、小6と、2年間続けてが旧委員を務めた級友の女子の存在が、大きかったかな、と思っているのです。

 

 自分の通っていた小学校は、地域としては、わりと教育レベルの高い小学校でした(ただし、学校そのものが、特色ある教育に励んでいた訳ではない)。

 で、自分の学年(学級)の場合、「知性系男子」「体力系男子」「女王様系女子」「おっとり系女子」、大きく分けて、4つのグループがあった感じで。

 誰が、どのグループが1軍、と明確な区別があった訳ではないですが(影響力のある人間が1軍、という意味では、何人かいたなあ、という感じですし、自分はその意味では、結構去就はしていたので、2軍くらいの立場は確保していた感じ)、その学級委員の女子は、「カリスマ性」に長けている訳ではありませんでした。

 

 確かに、学級委員に立候補する際、彼女が真っ先に、意を決するかの如く、「私にやらせて下さい」と挙手、スピーチするのです。でも、普段は必ずしも目立つ訳ではありませんでした(授業中の去就は割と多いが、トップ5以内という訳ではない。体力的には、「中の下」という感じ。どちらかといえば、「おっとり」「優しい」が取り柄の感じ)。

 ですが、学級で何かを話し合う、決めていく際において、結構自分が所属していた学級は、個性が強い級友が(自分も含めて)多くいましたから、よくいえば「白熱」、悪くいえば「紛糾」になりやすいのです。特に小6のときは、2日に1回のペースで、とある級友の女子と(学級委員の女子とは別の人間。ただ、存在感自体は、学級委員の女子以上の強烈な感じがあったし、頭の回転の速さも、そしてスポーツもよくできて、実に羨ましい感じでもありましたが)、終わりの会を中心に、(今に思えば些細なことですが)口論連発、という感じで(尤も、卒業間際に、じっくり御互いに話してみたところ、まあ、御互いに、先生に「自分をわかって欲しい」が故であった感じであったのですが)。

 

 でも、学級が苦しいときにこそ、その学級委員の彼女は、確かにAも一理あるけど、Bの方がこうだからよりいいと思う、というように、御互いを尊重しつつも、やんわりと自分の意見を的確に伝えられる感じで、学級全体が、彼女がそういうのだから、そうしよう、と不思議と一つになれるのです。

 先述の、ある女子との口論の際も、仲裁に入ることが多い感じでしたし、「目立ちたい」という意識は、不思議なくらい全くないんですよね、彼女は。「一人一人が輝ける学級をつくる一助になりたい」、それがひしひしと伝わる感じで。そして、学級も、年度が終わるときには、すっかり一つに、結束力の強い感じになっていましたから(だから、些細な喧嘩はしばしばでも、「いじめ」に発展するには至らなかった感じです)。

 

 で、その彼女。卒業文集に記した将来の夢が、「小学校の先生」でした。いまはどうしているのか、連絡をとっていないので、残念ながら存じませんが、彼女ならば、教育者にふさわしい資質能力の持ち主になっているはずだろうなあ、と感じるんですよね(いつかお会いできる機会があればなあ、と思ったりしますが)。

 

 

 ここに示したのは、あくまでも自分の経験からです。ですが、特に、この2年近くでの(つまり、東日本大震災の「復興支援活動」を通してでの)、自分が出会った仲間は、正直、「1軍」に該当し得る面々が、ずらりと並ぶ感じなんだろうなあ、と思うんですよね(勿論、そうではないかな、という人間も、いるにはいるでしょうけど)。

 例えば、「東北発未来塾」で印象に残る人間。そのうち何人かは、東北の学生団体の主宰者(トップ、あるいは総帥)の立場(あるいはそれに準ずる)を務めている。ああ、なるほど、納得、という感じなんですよね。画面越しに強烈な個性が伝わってきますし。

 

 では、自分はといえば、どうですかねえ。まあ、御世辞にも、「1軍」とはいい難いでしょう(苦笑)。でも、自分ができることを全力を尽くす、という感じですかね。

 

 

 それはそうと、自分の子ども時代以上に、いわゆる「スクールカースト」(実際、そういう言葉、概念が成立するに至ったことに照らして考えても)が顕在化、陰湿化している、ということ。

 確かに、いまの子どもは、自分の子ども時代に比して、チャレンジできる機会(あるいは選択肢)が増えた、志望校に手が届く可能性が高まった(ただし悪しき入試システムは大きくは変わっていない。少子化によるところが大きいし、AO等の推薦制度の充実というか、数字では測りづらいところにも光を充て得る入試システムへの変革を推進すべきと思いますが)、とは思いますが、その一方で、「ネットいじめ」「学校裏サイト」に象徴されるように、より「生きづらくなっている」感じも、また否めないのかな、とも感じるのです。

 

 

 どうすれば、「スクールカースト」を打破できるのか。どうすれば、「いじめ」を根絶へと近づけられるのか。自分自身、「いじめ」は、とりわけ、一人の人間として、ずっと向き合い続けたいテーマですし、生きている間に、根絶を実現するためにできることを、そう強く抱く感じとしてあります。

 答えは一つではないかもしれません。いやむしろ、模索が続く感じかもしれません。

 それに、現在の教育システムでは限界にあるのではないかということも、恐らく一理あるでしょう。結局、システムにメスを入れないと、抜本的改善は難しいかもしれない、と思うことも、正直あります(1学級あたりの人数を、25人~30人程度に絞り込む、受験システムを、より意欲や発想力等を重視する感じに変革する、教科を教えず、生徒指導、教育相談に特化した教員を採用、配置できるようにする、等々)。

 

 

 ですが、現在の教育システムの中でも、「スクールカースト」打破のために、できることはあるように思うのです。それは何か。

 

 「違いを認め合う」「本音で向き合う」「ぶつかり合いを厭わない」「御互いを尊重する」。

 

 結局、これに尽きるのではないか。自分は、そのように思うのです。

 これは、この2年近くでの出会いを通して、ということによるところが大きいです。違いを認め合える仲間に出会えたからこそ、自分を信じることができる、「自尊感情」がより一層育まれた感じですから。

 

 で、この、「違いを認め合う」。一つ、興味深いことがあります。

 先日、「Rの法則」において、「女子高校生版辞書」(2013年5月1日)というのが放送されていましたが、その一つに、「いじめ」が取り上げられていました。

 そこでは、「いじめ」の定義を、下記のように示しています。

 

 

 (図解5)「Rの法則 女子高校生版辞書」における、「いじめ」の定義。

 

 「一人では、何もできない人がやること。そして、絶対になくならないこと。」

 

 

 「絶対になくならない」。こういってしまうと、なんだか、とても悲しくなります。

 ただ、「相手がいじめられていると想像できない限り、いじめは絶対になくならない。」ということも、ある種一理あるのかも、と思うのです。

 

 そう。「人間の心の悲しみ」がわからない、想像できない、だから「いじめ」が誘発される、ということ。

 そして、「いじめ」は、自分の経験に照らして考えると、「異質な存在を、あるいは、自分にとって邪魔な存在を排除すること。」という感じなんですよね。例えば、予備校時代(高3のときになる訳ですが)のいじめは、合格の枠が限られており、自分とその彼女(及びそのグループ)は、成績(偏差値)のレベルが、さほど変わらなかったので、というのが、正直ありますから。

 

 なんというか、自分と異なる考え、世界に触れる経験をさせてあげること、そういう機会を持たせること、それなくして、子どもの「心の引き出し」を増やし深めることとか、あるいは、学級を一つにすることは、難しくなってきているのではないか、と感じるのです。

 勿論、教員が子どもと対話する、触れ合う機会を積極的に持つことは、言わずもがなである訳ですが。

 

 

 いずれにせよ、学級の、学校の主人公は、「子ども」であると思うのです。

 一人一人それぞれの子どもが、光り輝ける学校の実現。それこそが、「スクールカースト」の克服へと、近づけていくことになるのではないか、と思いつつも、いろいろと考えさせられる、それが、現時点で、『35歳の高校生』を見て、自分が考えさせられることです。

 

 

 末文において、この、『35歳の高校生』の公式HP内にある、掲示板スペース。

 10代や20代からの、心に響く言葉、文章が、いくつも詰まっています。これについて、ある種自戒の念をも籠めて、いくつか引用させて頂いて、それを以て、今回の文章の結びとさせて頂こうと思います。

 

 

 (図解6)『35歳の高校生』公式掲示板より、自分(愛球人)が心に響く言葉、文章(原則として原文のまま)。

 

 (1)ももさん(20歳代女子。2013年5月12日)。

 「子どもが真似する、とか放送辞めろ、とかコメント書いてる人がちらほらいますけど・・・。

このドラマは世の中に対して色んな問題提起をしているんだと思います。それが狙いで作っているんだと私は思いました。
だって、どの話を見てても、いじめている人たちがいかにバカバカしくて滑稽か、わかるじゃないですか?

子どもが真似するからやめろ!!…と叫ぶだけじゃなくて、子どもと一緒に観て、どう思う?自分だったらどうする?って家族で話し合う場を設けたらいいのでは?
いじめって人として最低だし、かっこ悪いって子どもに気づかせるのが親の役目なんでは?
ドラマを流さなくても流しても、学校でイジメが起こっていることは事実です。

このドラマが、イジメについて考える・気づくきっかけになって、バカバカしいイジメが少しでもなくなればいいと私は思います。」

 

 

 (2)ジャスミンさん(10歳代女子。2013年5月12日)。

 「この間を高校を卒業しました。
私の高校でははっきりとしたスクールカーストはなかったけどやっぱ生徒間での力関係はあったな。
下だからといっていじめとかはなかっかし、何から何まで上の言いなりってことはなかったな。自分の意見いいたければ言えたし。
ちなみに私は下でしたよ。
国木田高校はドラマだから少し極端だと思うけどやっぱ似たような高校はあるんだろうな。
けどこのドラマを見て高校に不安を持っている人、大丈夫ですよ。全ての高校のこうじゃありませんから。
ってこんな注意書きいりませんよね(笑)
みんなそのくらい分かってますよね。
ストーリーもinterestingだし、考えさせられるし、いい作品だと思いますよ、私は。

あと、このドラマがいじめを助長すると批難してる方へ
確かに影響を受ける子供もいると思いますが、問題になるほど影響される子はいないだろうし、大多数の子は、真似しようなんて思わないと思いますよ。もっと子供を信用してください。子供だって決してやってはいけないと分かってますから。いじめをする子はいじめを取り上げたドラマを見ようが見まいがすると思います。
特に子供に悪影響を与えるから放送するなとおっしゃってる方。娯楽作品との距離の取り方は保護者が教えるべき問題です。それをテレビ局に求めるのは保護者としての責任を放置してるということではないでしょうか?テレビだけでなく本や漫画だったとしても同じです。
心配なら悪い影響を受けないように教えればいいんですよ。
それに、たとえいかなる低俗、劣悪な表現であっても人は自分の目で判断する権利を持っているんです。放送禁止なんて知る権利の妨害以外の何ものでもないと思いますよ。
こういうドラマが好きになれないのも個人の自由です。そういう人は見なければいいんです。
私はこの番組が気にくわないから放送するななんて人は視聴者じゃなくてただのクレーマーです。
これらはもともと私の言葉でないものもあります。ある本から引用させていただきました。激しく同感だったので。(人気作家の本なのでどの本か分かる人には分かると思います。)

次回の放送も楽しみにしてます。長文失礼しました。」

 

 

 (3)メイさん(10歳代女子。2013年5月5日)。

 「『35歳の高校生』が子供たちに悪影響を与えると言う人がいますが、実際の今のイジメを親や教師に理解してもらうためにもこういったドラマは必要だと思います。

昔はどうだったか分かりませんが、今のイジメは本当に辛いんです。誰にも言えないんです。
ドラマでも言っていたように「イジメがもっと酷くなる」という理由もありますが、「相談しても何も変わらない」と思っている人もたくさんいると思います。
どんなに大人や周りの人が注意しても、イジメている本人たちの考え方を変えなければイジメをなくすのは不可能です。
ただ注意するだけではダメなんです。
今のイジメは複雑なんです。そうゆうことをよく理解してもらうためにも『35歳の高校生』はたくさんの人が観るべきだと思います。
そして、このドラマを観て、少しでも馬場ちゃんのような正しい考えを持った人が増え、いつかこの世の中が「イジメゼロ!!」になることを願っています。」

 

 

 (4)saraさん(10歳代女子。2013年5月4日)。

 「私は帰国子女で6年生の時に日本に帰ってきて地元の小学校に通っていました。私は小学6年生の時にいじめを受けました。担任の先生も生徒から迫害を受けていました。今日の放送を観てドラマほどではありませんでしたが当時のことを思い出しました。
中学に上がる際に帰国子女を受け入れてくれる中学校に行かせたいと副校長に父が相談していたそうです。ですが副校長は他の中学へ通わせることは教師として負けたことになるのでそれはやめていただきたいと言ったそうです。私はこれを聞いてこのドラマと似ているなと思いました。結局教師も人間ですから生徒の事ではなく自分の身が一番大切なのではないのかと。生徒を大切にする教師もいますがこういった事があるのも事実です。
だからこのドラマをとおして今の学校の現状がよい方向にいってくれたらなと思います。」

 

 

 長くなるので、ここまでにしますが、ラストをどう描くのか、一人の人間として、楽しみにさせて頂きたいことは勿論ですが、進路に直面している立場としても、自分が、子どものためにできることについて、改めて深く考えさせられる感じですので、こうして、ブログエントリーをさせて頂く感じです。

 

 

 長文、駄文、とても申し訳ございません。

 未熟な自分で申し訳ないですが、今後とも何卒よろしく御願い申し上げます。